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2011/09/30

2009.10.24(土) 京都・北野天満宮に詣でる

太宰府天満宮とともに天神信仰の中心地である京都、北野天満宮に詣でた。

続いて京都に現存する最古の仏堂遺構という大報恩寺(千本釈迦堂)を訪ね、

相国寺では有名な鳴き龍を見て、その鳴き声を聞いた。

また源氏物語の執筆地で紫式部邸宅址といわれる蘆山寺を訪ねて今回の

京都旅行を終えた。

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北野天満宮楼門(南門)

北野天満宮の参道脇の駐車場から、さざれ石越しに楼門(南門)を望む

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楼門(南門)を後ろに参道脇の駐車場を見る

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北野天満宮 三光門(中門)  重文

後西天皇の宸筆という「天満宮」の勅額を掲げてある三光門。豊富な彫刻の

中に日月星があるから三光門の名があるという。

もっとも星は見当たらず「星欠けの三光門ともいわれ」北野の七不思議の

ひとつという。

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北野天満宮・三光門(中門)から後ろに絵馬所を見る

南方に見る絵馬所を左に行き、また南に行った所に楼門(南門)がある。

この配置が北野の七不思議のひとつ「筋違いの本殿」であるという。

もちろん本殿は、この写真の後方(北方)にある。

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北野天満宮 社殿(本殿)  国宝  左近の松 右近の梅

主祭神・菅原道真を祀る本殿は桃山建築の代表で、この社殿は慶長12年

(1607)、豊臣秀頼の造営になるという。

古来神社祭祀は庭上で行われて来たので壮大な殿内で祭典を執行し得る

現社殿の出現は神社建築史上画期的なものという。

八棟造と称される総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く絢爛豪華な

桃山文化を今に伝えている。

楼門(南門)をくぐった正面には地主神社があり、菅公を祀る本殿はやや西に

位置している。この地主神社は北野天満宮鎮座以前の承和3年(836)に祭ら

れており、天暦元年(947)6月9日天満宮創祀の際、地主神社の正面を避けて

建てられたためという。

「筋違いの本殿」といわれる北野の七不思議のひとつである。

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北野天満宮本殿   国宝

北野天満宮は平安時代中期、国を鎮め守る神として、多治比文子(道真の

乳母という)らによって京都北野の右近馬場に菅原道真の霊を祀ったのが

始まりとされる。

永廷元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ

「北野天満宮天神」の神号を得たという。

文子天満宮は車で京都駅に向う途中の駅に近いところで見た。

京都市下京区間の町通花尾町下る天神町に在って祭神はもちろん

菅原道真である。

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大報恩寺(千本釈迦堂)  国宝

瑞応山と号する真言宗智山派の寺院である。承久3年(1221)藤原秀衡の

孫・義空上人が猫間中納言光隆の家卒・岸高より寄進を受けたこの地に

小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが起こりという。

当初、倶舎、天台、真言の三派の霊場として、堂塔伽藍も整い壮麗を極めた

というが、応仁の乱をはじめ、度々の災火で堂宇を焼失した。

現在唯一残る本堂(千本釈迦堂)は京都市に現存する最古の仏堂遺構という。

毎年二月にはおかめ福節分会、七月には六道まいり、十二月には大根焚きなど

多彩な行事が営まれ、その賑わいが季節の風物詩として全国にテレビ放映されている。

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相国寺(しょうこくじ)法堂  重文   京都市上京区今出川通烏丸東入

相国寺(しょうこくじ)は金閣寺、銀閣寺等の末寺を擁する臨済宗相国寺派の

大本山だそうだ。 この法堂(重文)は慶長10年(1605)豊臣秀頼が建立

したもので、桃山時代の遺構で一重裳階付入母屋造りの唐様建築の我国

最古の法堂という。

足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命を受け、明徳三年(1392)に、

夢想国師を勧請開山として完成したという。

その後、応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したという。

後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の

法堂を建立し、慶長十四年には徳川家康も三門を寄進した。

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相国寺法堂

桃山時代の遺構で我国最古の法堂という。一重裳階付入母屋造りの

唐様建築で、天井の蟠龍図は狩野光信(永徳の嫡子)筆。

蟠龍図の周りを歩くと、龍の眼がついて来た。蟠龍図の下の所定の位置で

両手をたたくと、龍が鳴いた。

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相国寺方丈  法堂の北側に建つ  文化四年(1807)再建

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蘆山寺  源氏物語執筆地、紫式部邸宅址  京都市上京区寺町広小路上る

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蘆山寺   源氏物語執筆地、紫式部邸宅址

この地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877~933)から伯父の

為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であったという。

それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれていたため「堤邸」と呼ばれ、

それに因んで兼輔は、「堤中納言」の名で知られていた。

紫式部は百年ほど前に兼輔が立てた旧い家で一生の大半を過ごしたと

いわれ、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子

(かたこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したと伝わっている。

2009.10.24(土) 京都 金閣寺を巡る

金閣・鹿苑寺は臨済宗相国寺(しょうこくじ)派の禅寺で1994年、世界遺産に

登録された舎利殿「金閣」が特に有名なため、金閣寺と呼ばれている。

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金閣寺参道を総門に向って歩く

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鏡湖池(きょうこち)を前に金閣・鹿苑寺が映える

この地は鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第があったといわれる。室町時代に

入り、応永4年(1397)足利3代将軍義満が、山荘北山殿を造営したという。

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土を具現したと言われ、北山文化の中心で

あった。

義満の死後、遺言通り夢想国師を開山とし、義満の法号・鹿苑院殿から二字を貰い

鹿苑寺(ろくおんじ)と名づけられたという。

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金閣・鹿苑寺

金閣寺正面の池畔から右手の路を北のほうへ向う

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金閣・鹿苑寺

舎利殿「金閣」の1層は寝殿造で法水院、2層と3層は黒漆の上から純金の箔が

張ってある。2層は武家造で潮音洞、3層は中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(くっ

きょうちょう)と呼ばれている。

屋根は椹(さわら)の杮葺(こけらぶき)で上には鳳凰が輝く。

1層の室内左側に復元された義満像が見える。

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金閣・鹿苑寺の裏手の池泉沿いの遊路から金閣を見る

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金閣寺の裏山路にある龍門瀑(龍門の滝)

鯉が滝を登ると龍になると言われる中国の故事・登龍門に因んだ鯉魚石

(りぎょせき)が置かれている。

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金閣寺の裏山路をほぼ上りきったところにある安民澤

安民沢(あんみんたく)は昔からある池の名前で、中の島にある「白蛇の塚」が見える。

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金閣寺の裏山路を上りきったところから金閣を見る

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金閣寺の裏山路を下り切ろうとする所にある不動堂

本尊は弘法大師作と伝えられる石不動明王で、霊験あらたかな秘仏という。

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金閣寺の駐車場付近から見た左大文字山

2009.10.23(金) 京都 二条城を歩く

1996年(平成六年)ユネスコの世界遺産に登録され、2003年(平成十五年)に

築城400年を迎えた元離宮 二条城を歩いた。

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京都国際ホテルから西方に二条城を見る  左手に東大手門が見える

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東大手門の左脇の外堀

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二条城の入口にあたる東大手門正面

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城内から東大手門の裏面を見る

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唐門から二の丸御殿を見る

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二の丸御殿 (国宝)

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二の丸庭園

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本丸に通ずる橋と内堀

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本丸内から本丸に通ずる門を見返る

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本丸庭園  この左前方奥に天守台と天守閣があったという

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本丸御殿   現在耐震性の観点から非公開

1788年(天明8年)に大火による類焼で本丸御殿(本丸内の殿舎)をなくしたという。

現在の建物も本丸御殿といわれているが、1847年(弘化4年)に建てられた旧桂宮

御殿を1894年(明治27年)に、ここに移し建てられたものという。

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内堀から本丸の天守閣跡を見る

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清流園

清流園は、江戸初期の豪商・角倉了以の屋敷から、建物の一部と庭石約800個を

譲り受け1965年(昭和40年)新たに作ったものという。

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清流園前から南方に内堀と本丸を見る

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お城まつりが行われていた  後方の建物は二の丸御殿

2009.10.23(金) 京都 八坂の塔を行く

東京時代の会社OB会が京都で開かれるのにあわせて、京都に遊んだ。

今回は腰痛のために皆と行動をとることは諦めて、宴会のみの参加と

させてもらった。

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八坂の塔

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八坂の塔   霊応山法観寺五重塔   京都市東山区八坂上町

  聖徳太子創建との伝承あり。平安遷都以前からあったといわれ、朝鮮

  半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたとの説が有力という。

  治承3年(1179)火災により焼失し、源頼朝により再建されたが、その後も

  幾度か焼失しているという。

  現在の塔は室町時代の永享12年(1440)に足利義利により再建された

  ものという。

  塔高 49m 重要文化財

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八坂の塔     塔高 49m 重要文化財

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八坂の塔  塔高 49m 重要文化財

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産寧坂の坂上辺り

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推理小説の山村美沙オフィス

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方広寺の鐘  京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町  重要文化財

  方広寺は豊臣秀吉により建立された天台宗山門派の寺である。豊臣氏

  当時のものとしてこの梵鐘が残っている。 高さ4.2m 外形2.8m 

  厚さ0.27m 重さ82.7トン

  この鐘に刻まれた銘文の中のごく一部の「国家安康」、「君臣豊樂」という

  一文が徳川家康の家と康を分断し、豊家を繁栄させようとの呪詛だと

  徳川家が豊臣家に言いがかりをつけたという。これが大阪の役による

  豊臣家滅亡への一里塚であったのであろうか。

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豊国神社

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耳塚(鼻塚)       京都市東山区豊国神社門前

  豊臣秀吉の朝鮮出兵の時(文禄の役・1592~1593、慶長の役・1597

  ~1598)戦いの証として討ち取った朝鮮、明国の兵の耳や鼻をそぎとって

  持ち帰ったものを葬った塚で2万人分ともいわれている。

  この塚は慶長二年(1597)に築造され、同年京都五山の僧を集め盛大に

  施餓鬼供養が行われたという。

  どう見ても古代朝鮮の王墓をかたどったものとみた。

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祇園町南側花見小路を行く

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花見小路の一力亭の前を行く

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京都国際ホテルの前から二条城方向を見る

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京都国際ホテルの玄関前に建つ橋本左内寓居址の碑

  左内の号は景岳(けいがく)、福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、

  医学を学び藩主・松平慶永(春嶽)に認められて藩学・明道館の幹事

  となった。

  幕末の志士で安政5年(1858)2月から4月までこの地にあった福井藩邸

  に居住して、いわゆる「徳川将軍継嗣問題」に関して活躍していたという。

  江戸幕府第13代将軍徳川家定の世継ぎに関する「将軍継嗣問題」で、

  慶喜を擁立する一橋派の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)は橋本左内を

  使い、同じく一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は西郷隆盛を使って「将軍継嗣

  問題」に奔走させた。

  安政5年(1858)井伊直弼が大老に就任し安政の大獄を断行した。薩摩藩主・

  島津斉彬が急死し、西郷隆盛は京都から脱出するが鹿児島で入水自殺を計る。

  一方越前福井藩では藩主・松平慶永(春嶽)が隠居謹慎を申し付けられ、

  橋本左内は安政6年(1859)10月7日「公儀憚からざる致し方、右始末不届付」

  との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬処刑場で斬首刑に処せられたという。

  橋本左内:天保5年(1834)~安政6年(1859) 享年26

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京都国際ホテルから二条城を見る

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OB会の宴会が開かれた「白河院」  京都市左京区岡崎法勝寺町

  大正期の数奇屋建築で名匠七代目小川治兵衛(通称植治)の作庭

  になる山水庭園をもつ

2009.9.8(火) 阿修羅を太宰府に観る

今日は、太宰府の九州国立博物館にやって来た待望の興福寺の阿修羅像を

観た。興福寺は藤原氏の氏寺として、和銅3年(710)の平城京遷都とともに

建立されたという。

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太宰府天満宮の表参道を行く

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太宰府天満宮の表参道の突き当りの鳥居を入った右手にある菅原道真の歌碑

       東風(こち)ふかばにほひおこせよ梅の花

            あるじなしとて春なわすれそ

  この歌は昌泰四年(901)二月一日に道真が自邸を去るときの心境として

  御前の梅花をご覧じて詠まれたと「大鏡」は伝えているという。これに続けて

  無実の罪で大宰府に配流されていくことも「大鏡」は間接的に述べているという。

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太宰府天満宮の反橋(そりはし)の右を行く

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太宰府の九州国立博物館には入場を待つ人の長い列が幾重にも続いている

この日の待ち時間は2時間半と出ていた

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後どれ位で入れるのだろうか

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館内のエスカレーターで会場に向う。中央の飾りは博多祇園山笠の飾り山

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阿修羅展会場入り口

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阿修羅展会場入り口のパネルの前で

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阿修羅展会場入り口のパネルの前で

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天平彫刻の華  国宝  阿修羅像

  興福寺創建1300年記念特別展として太宰府の九州国立博物館に

  「阿修羅」を筆頭とする国宝の八部衆像8体のうち5体、十大弟子像

  (現存6体)のうち4体がやって来た。

  興福寺を発願した藤原不比等の娘、聖武天皇の后・光明皇后は天平六年

  (734)、母の供養のため、興福寺に西金堂を建てた。(焼失して現在は

  跡地が残るのみ)お堂の本尊(焼失して鎌倉時代に復興)を取り囲んだのが、

  阿修羅など八部衆像と十大弟子像だったという。

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九州国立博物館阿修羅展会場からトラベーターで帰路につく

トラベーター横の通路には阿修羅展会場に向う人々の行列ができている

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太宰府天満宮側の九州国立博物館入口エスカレーター付近

ここにも入場を待つ人の列ができている

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太宰府天満宮の菖蒲池脇の梅林に建つ万葉歌碑

     萬代(よろづよ)に年は來経(きふ)とも梅の花

        絶ゆることなく咲き渡るべし    筑前介佐氏子首(こびと)

                                 万葉集巻五-830

  天平二年正月十三日に、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)宅にて

  開かれた宴会で詠まれた、梅花の歌三十二首のうちの一首である。

  当時筑前介は筑前守・山上憶良のすぐ下の役であったという。

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太宰府天満宮参道の「やす武」で具雑煮の昼食をとる

2009.9.17(木) 伯父が逝く

小さい時から可愛がってくれた伯父が95歳で逝った。伯父は若き日を満州で過ごし、

    出征もし、長く東京で過ごし、終の棲家を博多湾を見下ろす地に構えて、町内の人々と

    交流を重ねていた。

遺言により献体される

大学病院に搬送する車が待つ

2009.8.29(土) 福岡県芦屋町に遊ぶ

今日は、親戚から招待を受けて福岡県芦屋町に一泊し魚料理も御馳走になった。

    福岡県芦屋町は福岡市と北九州市の略中間に位置し、北側は響灘に面している。

    神功皇后の西征の時には、船で洞海湾から江川を通って芦屋に着いたといわれる。

    このことに関する地誌は貝原益軒の続筑前国風土記に詳しい。豊臣秀吉も神功皇后

    にならって肥前名護屋入りの時には江川を通って遠賀川に入り芦屋に着いている。

「マリンテラスあしや」から福岡県芦屋町を望む   橋は「なみかけ大橋」

    左から遠賀川が海に入る。その遠賀川沿いの家並が、江戸時代には芦屋千軒といわれ

    繁盛した処だ。伊万里焼などを中心とする国内交易の中継点として賑わったという。

    この芦屋千軒のなかには神功皇后を祀る岡湊神社がある。

航空自衛隊芦屋基地遠望

「マリンテラスあしや」から芦屋港を見る。  右は魚見公園

マリンテラスあしやにて

2009.8.19(水) 天神へ出る

今日は、天神へ出て、ばってん会の幹事さん達と会ったことである。

福岡天神行きの西鉄大牟田線の最後部の車輌から新幹線とクロスする辺りを見る

西鉄大牟田線

西鉄福岡天神駅

西鉄福岡天神駅プラットホームから南の方に渡辺通りを望む

西鉄福岡天神駅プラットホームから大丸デパートを見る

西鉄福岡天神駅北口コンコース

天神交差点付近  改装中の旧岩田屋本館の先が天神ビル

改装中の旧岩田屋本館の工事用囲いに貼られている写真パネル

旧西鉄大牟田線の福岡駅と渡辺通りを南の方に望む  右手に警固神社

天神交差点と旧岩田屋百貨店  旧岩田屋百貨店は来春パルコになる

昭和35年竣工の天神ビルと旧岩田屋百貨店

渡辺通り4丁目付近を南向す

2009.7.22(水) 最大食分90%の日食を見る

今日の福岡は日食の日である。刻々と月に隠されていく太陽の姿が見れるであろうか。

    

    食の始めは09:37:39といわれていたが上空は雲に隠れて太陽を見ることが出来ない。

    

    食の最大は10:56:05といわれていたが、丁度その前後に雲間越しに最大食分約90%

    といわれていた日食を見ることが出来た。

    睡蓮の花の開き具合は最大食分の頃とその約40分後とでは明らかに違っていた。

    

    食の終りは12:17:48ということであった。

2009.7.22 10:55:51    最大食分約90%の頃

2009.7.22 10:58:15

2009.7.22 10:58:24

2009.7.22 10:59:55  最大食分約90%の頃

2009.7.22 11:37:15    最大食分約90%の頃から約40分後

2009.6.12(金) 城下町佐伯の国木田独歩館を訪ねる

今日の街角風景は、大分県佐伯市の国木田独歩館を訪ねた時のものである。

    国木田独歩は明治26年から明治27年にかけて佐伯に鶴谷学館の教師として赴任。

    国木田独歩館は、明治26年10月から明治27年6月末までの間、国木田独歩と

    弟収二が下宿した鶴谷学館の館長であった坂本永年邸であり、城山の麓に展開する

    城下町の一角にある。

    国木田独歩は主屋2階に下宿し、裏山にあたる城山(140メートル)の山上まで散歩

    することも多かったと伝えられているとか。

国木田独歩館入口正面の冠門

左に国木田独歩館の冠門

国木田独歩館前の武家屋敷通り

国木田独歩館前で

国木田独歩館玄関

前庭から国木田独歩館を見る

城山の麓にあたる地形を活かした国木田独歩館の庭園

国木田独歩館の庭園を見る

独歩と弟収二が下宿した国木田独歩館の主屋二階

     国木田独歩 (1871~1908)

        「春の鳥」、「源おぢ」、「鹿狩」など、佐伯を舞台とする作品も少なくないとか。

        上京後は従軍記者を経て雑誌編集などに従事するが、明治41年6月23日

        病没。

        「武蔵野」、「忘れえぬ人々」、「欺かざるの記」など、明治の文壇に輝く名作を

        数多く遺す。  

豊後佐伯城址(鶴屋城)の三の丸櫓門(重文)   後ろは城山(140メートル)

    国木田独歩館は、この写真の右手の城山の麓に大きく展開する城下町の一角にある。

    慶長6年(1601)、秀吉子飼いの大名であった毛利高政が二万石で佐伯藩に移封

    され、築城と町作りを進め、慶長11年(1606)に完成したのが豊後佐伯城(鶴屋城)

    である。毛利高政は秀吉子飼いの大名でありながら、その大名家は綿々と引き継がれ

    明治維新まで存続したという。 

2009.6.12(金) 臼杵城址と臼杵石仏を訪ねる

今日の街角風景は、大分県の臼杵(うすき)城址と臼杵石仏を訪ねたことである。

臼杵城址

臼杵城址

    九州の覇者、大友宗麟は永禄4年(1561)毛利元就に敗れ、本拠地の府内(大分市)

    を諦め、永禄5年(1562)府内の南の臼杵湾に浮かんでいた丹生(にぶ)島に築城した。

    

    これが臼杵城(亀城)であるという。永禄7年(1564)当時の大友宗麟の所領は153万

    石余りであったという。

    慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、5万石で稲葉貞通が美濃(岐阜県)郡上八幡から

    この臼杵に移封されて以来15代久通まで、明治維新までの約270年間この城を守った

    という。

この森とその右手一帯に臼杵石仏が鎮座まします

   古薗石仏大日如来像に代表される臼杵磨崖仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて

   彫像されたといわれる。

 

   石仏群は四群に分かれ、その数は60余体で、このうち59体が国宝に指定されている。

   

   石仏群は四群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏、

   古園石仏となづけられている。

古園石仏の屋根が見える

ホキ石仏第二群

ホキ石仏第二群

ホキ石仏第一群

ホキ石仏第一群

ホキ石仏第一群

ホキ石仏第一群の屋根囲い

山王山石仏

山王山石仏から

ホキ石仏第一群の屋根囲いを見る

古薗石仏に至る路

古薗石仏

古薗石仏

古薗石仏

古薗石仏

修復前の古薗石仏の写真が掲げられていた

古薗石仏大日如来像

古薗石仏大日如来像

古薗石仏大日如来像

古薗石仏から田園を見る

古薗石仏から坂を下って帰路につく

臼杵石仏土産店通り

2009.6.12(金) 大分自動車道から由布岳を見る

    今日の街角風景は、大分自動車道の由布岳PAから由布岳、鶴見岳、内山、硫黄山

    を見たことである。

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

       恋ひつつも 居らむとすれど 遊布麻山(ゆふまやま)

             隠れし君を 思いかねつも            読人不詳 

                                       (万葉集巻十四-3475)

       大意 : 恋い慕いながらもじっとしていようと思うが、遊布麻山(ゆふまやま)

             (由布山=由布岳)に隠れた君を思うともうどうにもならない。

                                        (佐々木均太郎氏訳)

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

左から内山(1275メートル)、鶴見岳(1375メートル)

内山(1275メートル)   左奥が伽藍岳(硫黄山)(1045メートル)

伽藍岳(硫黄山)(1045メートル)

別府湾SAから見た高崎山(628メートル)

2009.5.29(金) 伊万里大川内山に遊ぶ

今日の街角風景は、佐賀県伊万里市の鍋島藩・秘窯の里といわれる大川内山に遊んだ

   ことである。

   この地は近世磁器の至宝といわれる色鍋島など鍋島藩の藩窯の伝統美と技法を今に

   伝えるという。

   鍋島藩が御用窯を有田からこの大川内山に移したのは、延宝3年(1675年)という。

佐賀県伊万里市の「大川内山」を伊万里鍋島焼会館前の駐車場から見る

佐賀県伊万里市の「大川内山」を伊万里鍋島焼会館前の駐車場から見る

伊万里大川内山の鍋島藩窯坂

伊万里鍋島焼会館内で

伊万里大川内山の入口に架かる鍋島藩窯橋

2009.5.16(土) 蘭の花が咲く

今日の街角風景は、蘭の一種、デンドロビウムの花である

蘭(らん)    デンドロビウム         ラン(ラン科)秋の季語

蘭のかや異国のように三ヶの月      小林一茶

叔母を誘って昼食会

2009.5.13(水) 二水会で天神に出る

今日の街角風景は、二水会で天神に出たことである。

渡辺通りの三越前交差点を右折して福岡市役所方向へ向う

会場の益正天神店前から西方の天神交差点方向を見る

益正天神店にて

西中洲の「すくーる」にて

中州のクラブ「エステリオ」に寄る

エステリオにて

エステリオにて

2009.4.14(火) 霧の湯布院

今日の街角風景は、霧の湯布院盆地と霧雨に煙る別府湾と高崎山の遠望である。

霧の湯布院盆地

別府湾SAから霧雨に煙る別府湾と高崎山(628m)を遠望す

    万葉集に武市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作として次の歌がある。     

        四極山(しはつやま) 打ち越え見れば 笠縫(かさぬい)の

            島こぎかくる 棚無(たなな)し小舟(おぶね)   万葉集巻三・272

    全意 : 四極山(高崎山)を越えて見渡すと笠縫島に漕ぎ隠れてゆく舟板もない小舟よ

                                           (佐々木均太郎氏訳)

    「四極山(しはつやま)」、「笠縫島(かさぬいじま)」の所在について、現在の学説では

    所在未詳が一般的という。

    江戸前期の国学者・契沖は参河(みかわ)説(愛知県幡豆(はつ)郡吉良町)をとって

    いる。また摂津説(大阪市住吉区)もあり、この説は賀茂真淵が発展させ、それを継い

    で本居宣長が「玉勝間」(1759年)で、摂津住吉に比定したという。

    現在では、四極山(しはつやま)は高崎山であるという説が強まっていると佐々木均太郎氏

    は述べている。    

2009.4.13(月) 湯布院に遊ぶ

今日の街角風景は、大分県由布市湯布院の温泉に浸かり、休養したことである。

湯布院ICの出入口のすぐ傍にある「道の駅湯布院」から見た由布岳(1584m)

        よしえやし 恋ひじとすれど 木綿間山(ゆふまやま)

             越えにし君が 思ほゆらくに      万葉集巻十二・3191 読人不詳

        由布岳(1584m)は万葉集では、木綿山(ゆふやま)、木綿間山(ゆふまやま)、

        遊布麻夜萬(ゆふまやま)と表記されている。

        木綿(ゆふ)は、楮(たく)(コウゾ)の木のことで、皮をはぎ繊維にして衣や紙の

        原料になったという。

        豊後風土記によると、「柚富(ゆふ)の郷(さと)・・・楮(たく)(コウゾ)の樹多(さは)

        に生(お)ひたり、常に楮(たく)(コウゾ)の皮を取りて、木綿(ゆふ)を造る。よりて

        柚富(ゆふ)の郷(さと)といふ」             

湯布院保養所から見た由布岳(1584m)

保養所にて

保養所にて

2009.4.6(月) 薬院でタイ料理を食す

今日の街角風景は、福岡市の薬院でタイ料理を食したことである。

福岡市中央区薬院のタイ料理レストラン「プラウチャイ」の料理

会食の仲間とここ博多駅筑紫口で待合せ

渡辺通り1丁目交差点   正面の茶色のビルは間もなく建替えられる電気ビル旧舘

西鉄薬院駅

薬院新川

薬院大通りを少し直進して右折するとタイ料理レストラン「プラウチャイ」に至る

タイ料理レストラン「プラウチャイ」     ボンラパス薬院店の2階にある

タイ料理レストラン「プラウチャイ」

プラウチャイにて

プラウチャイにて

2009.3.30(月) チューリップの花

今日の街角風景は、チューリップの花と筑紫南ヶ丘病院である。

チューリップ         チューリップ(ユリ科)春の季語

チューリップ 喜びだけを 持っている    細見綾子

筑紫南ヶ丘病院     義母が早春から入院している

曾孫が見舞いに来た

2009.3.24(火) 太宰府・都府楼址に遊ぶ

今日の街角風景は、福岡県太宰府市観世音寺4丁目の大宰府政庁址である都府楼址に

   遊んだ時のものである。

   「天皇(すめろぎ)の遠(とお)の朝廷(みかど)」と詠われた大宰府が、筑前国御笠郡に設置

   されたのは、斉明天皇・天智天皇母子二代にわたる百済再興に係る軍事の失敗によるもの

   であったろう。

   663年、日本が百済を救援して唐・新羅軍と朝鮮半島西岸で戦った白村江(はくすきのえ)

   の戦いの敗戦直後、現在地(太宰府市観世音寺4丁目)に造営されたとするのが一般的

   だという。

   当時の敗戦によって、対馬・壱岐の二島と筑紫路とに防人を配し、烽火(とぶひ)を設け、

   水城(みずき)の大堤を造り、都府楼の背後の大野山(四王寺山)などに二城を築くなど

   国防を強化した。

   当初、軍政府的な色彩が強かった大宰府も、国家の外交儀礼の府、九州の総督の府

   としての性格を強くしていった。

   現在地に建つ大宰府政庁(都府楼)は飛鳥、奈良、平安時代の約400年間にわたって

   存在したと云われている。数度の火災や天慶4年(941年)の藤原純友の乱による大宰

   府焼き払いにも係らず、その都度、大宰府は再建されていたという。そして考古学的には

   11世紀後半代には現在の大宰府政庁跡(都府楼跡)の建物は廃絶したと考えられている

   という。

   では、現在の大宰府政庁跡(都府楼跡)の建物が廃絶したあとの政庁はどこへ移った

   のであろうか。そこのところは未だ分かっていない。

   大宰府の終焉は、鎌倉時代の蒙古襲来(1274年文永の役、1281年弘安の役)の後に

   鎌倉から室町、戦国時代へと変わる社会の変遷のなかで、事実上の終焉に向っていった

   のであろう。

大宰府政庁前広場と考えられるところから都府楼(大宰府政庁)址を見る

大宰府政庁前広場と考えられるところから都府楼(大宰府政庁)址を見る

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から南南西の方を望む

    左側の碑の後方が天拝山(257メートル)  菅原道真が天に向って無実を訴えた

     という山である。

都府楼(大宰府政庁)正殿址から北の方を見る

都府楼(大宰府政庁)正殿址から北の方を見る

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から南の方を望む

    大宰府政庁は、回廊の東端から西端までが112メートル、南北の築地間の距離が

    211メートルという広大な区画であったという。

                  都府楼址       安西 均

                むかし

                ここに大宰府正庁があった

                身じろぎもせず眠っている

                このさびしげな礎石のうえに

                「遠(とお)の朝廷(みかど)」がそびえていた

                旅びとよ

                見えざる朱(あけ)の円柱にもたれて

                しばしを憩いたまえ

                見えざる甍(いらか)を濡らす青磁の雨も

                やがて霽(は)れるであろう

                まぼろしの朱雀(すざく)大路のかなたから

                淡い水たまりを踏みながら

                天の牛車(ぎっしゃ)も帰ってくるだろう

                心しずかに砂の忍び音(ね)をききたまえ

                千年の梅が香を襟に挿して

                ふたたび旅をつづけたまえ 

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の方を望む

桜の木の向こう側に大伴旅人の亡妻挽歌の万葉歌碑が建つ

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の四王寺山の麓にある万葉歌碑

大伴旅人の亡妻挽歌の万葉歌碑

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北の四王寺山の麓にある万葉歌碑

    万葉集巻五ー793にある大伴旅人のうたである。

     大宰帥大伴卿の、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌一首

     余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理

              世の中は 空(むな)しきものと 知る時し 

                 いよよますます 悲しかりけり      大伴旅人

                    神龜五年(728年)六月二十三日

     大意 : 世の中は空しいものだとつくづく知る時に、いよいよますます悲哀の感を

           新たにする。

     この歌は神龜五年(728年)六月二十三日の日付のある旅人の「凶問に報(こた)

     ふる歌」である。このころ旅人の周辺では大宰府に同伴した妻・大伴郎女(おおとも

     のいらつめ)の死だけでなく、かなり不幸なできごとがあったようにいわれている。

     

     大宰帥大伴旅人卿の亡妻挽歌であろうか。

都府楼(大宰府政庁)址の中心部の正殿址から北西の方にある

坂本八幡宮近くの駐車場

都府楼正殿址から北西の方にある坂本八幡宮近くの駐車場に近い万葉歌碑

背後の森は蔵司(くらつかさ)地区

都府楼正殿址から北西の方にある坂本八幡宮近くの駐車場に近い万葉歌碑

    天平2年(730年)正月13日、大宰府の帥・大伴旅人(当時66歳)は自邸において

    府官および管下諸国の国史から沙弥の満誓までを招き、盛大な梅花の宴を催した。

    この時の梅花の歌三十二首が万葉集に載せられている。そのトップを飾る歌が、この

    万葉歌碑に刻まれた歌である。

        正月(むつき)立ち 春の來(きた)らば 斯(か)くしこそ 

             梅を招(を)きつつ 樂(たの)しき終へめ      大弐紀卿

                                         (万葉集巻五ー815)

        大意 : 正月になって、春が来たらば、このように、梅の花を招き寄せて

              楽しいことの極みを尽そう。

          

        大弐紀卿 : 当時、大宰大弐であった紀氏の人。名は未詳。

2009.3.23(月) 太宰府・観世音寺に遊ぶ

今日の街角風景は、福岡県太宰府市の筑紫・観世音寺に遊んだことである。

    観世音寺(かんぜおんじ)は福岡県太宰府市の都府楼址から東に600メートルほど

    いったところにある天智天皇(在位西暦662~672年)の勅願寺であるという。

    観世音寺は百済救援の為に西下し、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわの

    みや)(現福岡県朝倉市)で亡くなった母君斉明天皇(在位西暦655~662年)の菩提を

    弔う為に、子の天智天皇(在位西暦662~672年)が発願した寺であるという。

    天智天皇(在位西暦662~672年)が発願し建立をはじめたが、造営はなかなか進まず

    ようやく746年(天平18年)完成したという。

    観世音寺は大宰府政庁の東に隣接し、方三町の寺域に七堂伽藍を有し、「府の大寺」と

    呼ばれた特別の寺であったという。また、外国の使節が訪れた時などに、伎楽を演じて

    もてなす等の役目は観世音寺が担ったらしい。    

樟の参道の向こうに観世音寺講堂がある

観世音寺講堂    福岡県指定重要文化財

    創建時の講堂は1143年(康治2年)6月の大火で消失したともいわれ、現在のものは

    1688年(元禄元年)福岡藩主黒田光之のもと、福岡簀子(すのこ)町天王寺屋浦了夢

    の寄進造立とか。

観世音寺の梵鐘  国宝

   菅原道真の「不出門」(門を出でず)の一節にこの鐘がでてくる。901年ごろの作であろう

       都府楼纔看瓦色   都府楼は纔(わず)かに瓦の色を看る

       観音寺只鐘声聞   観音寺は只(ただ)鐘の声を聞く

   歌人長塚節(1879~1915)は大正3年11月23日観世音寺を訪れている

             手を当てて 鐘はたふとき 冷たさに 

                 爪(つま)叩き聴く 其のかそけきを

    観世音寺の鐘は、京都妙心寺の鐘と兄弟と云われ、その古さに於ても亦優秀さに於ても

    正に日本一と称せられて、太宰府市の隣町である福岡県糟屋郡多々良で鋳造された

    銅鐘であるとのこと。      

万葉歌碑の建つ観世音寺庭園    昔の池泉の跡だろうか

観世音寺庭園にある万葉歌碑

          しらぬひ 筑紫(つくし)の綿(わた)は 身(み)につけて

              いまだは着(き)ねど 暖(あたた)かに見ゆ   沙弥満誓

                     万葉集巻三ー336

   1982年(昭和57年)福岡市博多区の比恵遺跡と福岡県甘木市の栗山遺跡から出土

   した絹は、紀元前1世紀頃の日本製の絹と考定されているという。平城宮跡から都に

   綿を貢進した木簡が20数枚出土しているというが、その綿の産地は肥前、肥後、豊前、

   豊後、筑前など、すべて大宰府管内の国々という。万葉時代の綿は綿の実で作る木綿

   ではなく、まゆで作る真綿(まわた)だったという。

   作者・沙弥満誓(しゃみまんせい)は723年(養老7年)、都から筑紫の観世音寺に派遣

   された僧であるという。

   沙弥満誓は、絹と真綿の国・筑紫に来て、上質の真綿に驚き、上記の賛美の歌を詠んだ

   と思われる。

観世音寺講堂の裏手、北側の礎石群   僧堂の跡であろうか

観世音寺講堂の裏手、北側の礎石群から見た日吉(ひえ)神社

   日吉(ひえ)神社は観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれているそうだ。

   比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしいという。

   江戸時代の地誌によると、豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣をはったが、時の

   観世音寺の別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て

   秀吉の怒りをかい、寺領を没収されたと伝える。   

観世音寺参道

観世音寺参道から戒壇院の森を見る

観世音寺の西南角に設けられた戒壇院

   戒壇院は現在博多聖福寺の末寺で臨済宗の禅寺である。もともとは「日本三戒壇」の

   一つ、西の戒壇として天平宝宇5年(761年)、観世音寺の西南角に設けられた観世音

   寺の付属施設であった。ここで戒を受けエリートコースに乗った僧尼は諸国の国分寺など

   に赴任したという。観世音寺は戒壇院を持つことによって西海道諸国の僧尼と寺院を管轄

   し、名実共に「府の大寺」となったという。

2009.3.23(月) 博多・綱場町界隈

   今日の街角風景は、博多織元・博多人形の店がある博多の綱場町界隈である。

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から西の方に天神方面を望む

中央の緑青色のドームの赤煉瓦の建物は重要文化財の旧日本生命九州支店である

昭和通りは戦後の都市計画により50メートル幅の大道路となった

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から東の方に蔵本方面を望む

写真の左側が奈良屋町(ならやまち)、右側が綱場町(つなばまち)

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から北の方に博多港ポートタワーを見る

写真の左側が古門戸町(こもんどまち)、右側が奈良屋町(ならやまち)

昭和通りの博多五町交差点の綱場町から南の方に土居通りが続く

写真の左側が綱場町(つなばまち)、右側が下川端町(しもかわばたまち)

博多織元・博多人形の店

博多人形

2009.3.21(土) 可也山(筑紫富士)遠望

  今日の街角風景は、福岡市の西の方に位置する福岡県糸島郡志摩町の可也山(かやさん、

   標高365m)の遠望である。筑紫富士とも小富士とも呼ばれている。

前原市三雲から見た福岡県糸島郡志摩町の可也山(かやさん、標高365m)

    万葉集巻十五ー3674に可也山を詠ったものがある。

    引津(ひきつ)の亭(とまり)に船泊(ふねは)てて作る歌七首 として、この中の一首

        草枕 旅を苦しみ 戀ひ居れば 可也(かや)の山邊に さ男鹿鳴くも

                             大判官  (壬生宇太麿 みぶのうたまろ)

    歌意: 難儀な旅をつづけながら妻を恋しく思っていると、可也山のふもとで鹿が鳴くよ

             

                                  万葉風土記(3)猪股静彌文による

    この歌は遣新羅使一行の中の大判官・壬生宇太麿(みぶのうたまろ)の一首で、天平

    八年(736年)陰暦八月の頃である。

    天平八年(736年)二月、聖武天皇は従五位下、安倍継麿(あべのつぐまろ)を新羅

    派遣の大使に任命。遣新羅使に任命された一行は、六月、難波の津を出発し、瀬戸

    内海を西進し、大分県中津市の分間(わくま)の浦を経て周防灘を北上し、関門海峡

    を乗り切って響灘に出、今の福岡市の平和台球場のところにあった鴻臚館(こうろかん)

    に至り、糸島半島の唐泊(からどまり)、引津(ひきつ)を出航して、壱岐、対馬を経て

    新羅に向ったという。

    朝鮮半島では、663年に百済が滅亡、668年に高句麗が滅亡し、新羅が朝鮮半島の

    統一国家となったという。しかし統一戦争中は新羅を支援してきた唐は新羅を支配しよう

    とするも、735年、新羅は大同江以南の地を唐に割譲させ、名実共に統一国家として

    朝鮮半島に君臨したという。

    掲げた遣新羅使の可也山の歌は、新羅が名実共に国家統一を果たした735年の翌年

    のことなのだ。

    

    遣新羅使の使人達の詠んだ歌145首が万葉集巻十五に編集されている。

前原市三雲から見た福岡県糸島郡志摩町の可也山(かやさん、標高365m)

前原市三雲から西の方に見た雷山(らいざん 標高955m)

土筆(つくし)       スギナ(シダ植物トクサ科)春の季語

土筆煮て 飯くふ夜の 台所      正岡子規

前原市波多江から南の方に見た雷山(らいざん 標高955m)

2009.3.4(水) 博多綱場町で博多人形を求める

今日の街角風景は、福岡市博多区綱場町の博多織元・博多人形の店で博多人形などを

   求めたことである。

博多人形

    左側の福岡市博多区綱場町(つなばまち)の博多織元・博多人形の店の前から南の方

    に、土居通りを見る。はるか先の右側に櫛田神社があるはずだ。写真の右側は下川端

    町で博多座も近い。

    綱場町(つなばまち)は戦後の町名改正にも残った町名である。古くは博多六町筋のひ

    とつで、1709年(宝永6年)完成の貝原益軒の筑前国続風土記には・・・綱場町とし、

    石堂流に属し家数33軒・・・とある。大正、昭和初期にかけては三笠屋、丸五呉服店

    などの衣類の店舗が多かったという。昭和20年6月19日の空襲で全町消失したという。

博多織元・博多人形の店

福岡市博多区綱場町(つなばまち)の博多織元・博多人形の店

2009.1.25(日) 雪の臘梅(ろうばい)

      今日の街角風景は、雪をかぶる臘梅(ろうばい)の花である。

      福岡は昨日、今日と待に待った雪が降ったのだ。

      福岡を取り囲む背振山系や三郡山系の山々は雪をかぶることが

      多いが、福岡市街地には今年初めての雪であった。

臘梅(ろうばい)       ロウバイ(ロウバイ科)冬の季語

臘梅や 雪うち透す 枝のたけ      芥川龍之介

臘梅(ろうばい)       ロウバイ(ロウバイ科)冬の季語

風往き来 して臘梅の つやを消す      長谷川双魚

サザンカと柚子の実

2009.1.5(月) 博多座でミュージカル「ミス・サイゴン」を観る

今日の街角風景は、今日初日を迎えたミュージカル「ミス・サイゴン」を博多座で観たこと

    である。ミュージカル「ミス・サイゴン」は3月15日までのロングラン公演となっている。

    「ミス・サイゴン」は1989年9月にロンドンのウエストエンドのドルリレーン劇場で初演され

    たという。ニューヨークのブロードウェイではロングラン公演歴代10位となっているという。

    なお、ブロードウェイでのロングラン公演歴代1位は「オペラ座の怪人」とか。

    

    ミュージカル「ミス・サイゴン」はアラン・ブーブリル&クロード=ミッシェル・シェーンベルク作

    作詞家のアラン・ブーブリルが、ベトナム人少女が元アメリカ軍兵士の父親の待つアメリカへ

    出発しようとしている写真を入手し、そこからアイデアを受けて創作されたという。

    プッチーニ作イタリア・オペラ「蝶々夫人」などのストーリーがベースにあると云われている。

ミュージカル「ミス・サイゴン」の初日を迎えた博多座

博多座     福岡市博多区下川端町

博多座玄関

博多座

     1階前方部の座席をはずしてオーケストラピットが設置されていた。2階前列中央部

     の席から舞台とオーケストラピットを俯瞰する絶好の位置からの観劇となった。

ミュージカル「ミス・サイゴン」

   日本では東宝が制作権を入手し、1992年4月に帝国劇場で開幕したという。主演の

   キム役には当時アイドルであった本田美奈子が抜擢され、話題を呼んだという。

   2008年9月4日の公演にて通算上演回数1000回を達成したという。

   

   日本初演時、バンコクの歓楽街でポン引きに店に誘われる観光客は国籍不明だったが

   (ただし、セリフでは「アーユーブリティシュ?」とイギリス人を匂わせていた)、再演時には

   他国での公演同様に、日本人のツアー客に変更されていたという。

ミュージカル「ミス・サイゴン」

   キャッチフレーズは、愛があるから生きてゆける、夢があるから生きてゆける、おまえが

   いるから生きてゆける・・・・・である。

   

   ベトナム戦争末期のサイゴンの売春バーで働くベトナム人少女キムとアメリカ大使館で

   軍属運転手を務めるクリスの悲恋物語である。

   この日は、狂言回しのエンジニア役に筧利夫、主演のキム役に笹本玲奈の布陣であった。

   物語の舞台は、ベトナム戦争が終焉を迎えようとしていた南ベトナムの首都サイゴン。

   このサイゴンでの出会いと、1975年4月30日のサイゴン陥落によるアメリカ軍の全面撤退

   に伴う別離。

   1978年9月のベトナム残留孤児(ブイ・ドイ)支援活動が行われている米国アトランタ。

   そして主人公ミス・サイゴンのキムが子供と共に生きているタイの首都バンコクが物語の

   舞台である。

   ベトナム戦争は1967年2月に米国が南ベトナムに、南ベトナム軍事援助司令部を設置

   して本格介入した時をもって戦争開始とするのだろうか。ベトナム戦争は南北ベトナム間

   の戦争であるが、実態はソ連、中国等の共産主義陣営とアメリカ等の資本主義陣営との

   代理戦争だったのであろうか。      

ミュージカル「ミス・サイゴン」

       舞台上に実物大のヘリコプターが降り立つ・・・耳をつんざくような轟音と共に

   このシーンは、1975年4月30日のサイゴン陥落によってアメリカが全面撤退する最後の

   時のアメリカ大使館からの脱出劇は、このようでであったのかと想われるに充分の迫力で

   迫ってきた。

   博多座初日公演のこの日、休憩後の後場の舞台でセットの上下降装置が途中で作動せず、

   公演一時中断10分間のアナウンスがあった。数分間で修復したと思ったが、実際は10分

   位かかったのかもしれない。終幕後のカーテンコールで、筧利夫が子役の頭を下げさせて

   謝罪するなどし、これでもって大いに盛り上がった感があった。          

博多座   ベトナムグッズの売店

博多座    ベトナムレストラン

10周年を迎えた博多座

博多織の壁掛けの前で

博多座からの帰途、博多の総鎮守・櫛田神社の門前には初詣の人々が集っていた。

2008.12.27(土) 雷山遠望

  今日の街角風景は、福岡県前原市波多江から背振山脈の雷山(らいざん 955m)の

   遠望である。福岡県前原市は魏志倭人伝に記載された伊都国であることは定説であろう。

   万葉集巻三 雜歌 の冒頭の歌は

      天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首

   大君は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)らせるかも

      大意 : 大君は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上にいほりして

            おいでになることである。

      天皇 : 人麿の作歌だから天武・持統・文武の三帝のうちであろう。持統天皇か。

      雷岳(いかづちのをか) : 奈良県高市郡明日香村雷にある丘。異説がある。

      雷(いかづち) : 雷の丘のこと       

                    (万葉集巻三ー235  岩波古典文学大系万葉集一による)

福岡県前原市波多江から背振山脈の雷山(らいざん 955m)を遠望す

   

    中央のピークが雷山(らいざん 955m)  左側の平野部が三雲・井原遺跡の場所

    中央奥のところに平原遺跡がある。そう、ここから見るのは伊都国の国原だろう。

     雷岳(いかづちのをか)は奈良県高市郡明日香村雷にある丘といわれているが、

     異説がある。その異説の第一候補が、この雷山(らいざん 955m)なのである。

雷山(955m)の西方、右手に連なる背振山脈の羽金山(900m)

    福岡、佐賀県境の羽金山(900m)の頂上に塔が見えるが、ここに日本標準時刻を

    発信する標準電波送信所がある。

福岡市南部から見た背振山脈の最高峰の背振山(1055m)

この右側のはるか奥手に、雷山(らいざん955m)が連なる

2011/09/29

2008.12.25(木) 長崎の浦上川界隈

今日の街角風景は、長崎の浦上川界隈である。長崎市竹の久保町の長崎西高の前を

    流れる浦上川とJR浦上駅を通る線路に囲まれた茂里町一帯である。この茂里町一帯

    は、戦前は三菱長崎製鋼所があったが原爆で灰燼と帰した。戦後汽車で長崎に戻って

    来た僕は、汽車の窓から見た国鉄浦上駅に隣接する工場群の灰燼に帰した残骸の連なる

    のを見たのだ。幼かった自分の目にも、この時の世にも恐ろしい光景は残像として今も存在

    し、消すことは出来ない。

長崎西高の下の浦上川沿いにある「江山楼(こうざんろう)」    長崎市竹の久保町

江山楼(こうざんろう)

江山楼で昼食をとる     やわらか麺の皿うどん、豚の角煮、春巻

江山楼から浦上川を挟んで対岸の茂里町を見る   右の方は南で長崎港となる

    

    左手の浦上地区と右手の稲佐地区を結ぶ梁川橋が中央に黒く影を落とす。

         向こうの山は長崎半島の山並で、右端に見えるのが八郎岳(標高590m)である。

     左の建物が長崎ブリックホール、右側の建物が長崎市クリーンセンターである。

    長崎市は三つの公会堂を有している。茂里町の長崎ブリックホールは2002席の大

    ホールと542席の国際会議場を持っている。魚町の長崎市公会堂は昭和37年の竣工

    ではあるが1922名収容の大ホールがある。また千歳町にはチトセピアホールがあって

    500席のホールを持つ。   

江山楼から見た対岸   右から長崎ブリックホール、長崎文化放送、長崎新聞社

     長崎新聞社の左奥に見える山は金比羅さんで、高射砲陣地があったあたりまで

     よく登ったものだ。

江山楼から浦上川のやや上流域を見る    中央に長崎原爆病院

江山楼から浦上川の上流域、北の方を見る 

中央の建物は長崎厚生年金会館、その前のつり橋は歩道橋

長崎自動車道今村PAから雲仙普賢岳を望む

今村PAから雲仙普賢岳を望む

2008.12.21(日) 雨の福岡天神メインストリート

今日の街角風景は、福岡三越の7Fから見た、雨の福岡天神メインストリートと、孫に送る

    クリスマスプレゼントを福岡三越で仕入れたことである。

雨に煙る福岡天神のメインストリート「渡辺通り」  渡辺通り4丁目から天神交差点を望む

   かっての福岡天神のメインストリートは天神交差点を東西に走る「明治通り」であったが、今

   は天神交差点を南北に走る、この「渡辺通り」となった。

福岡三越でクリスマスプレゼントにチョコレートを買う

向こうに見える店で

定番の「旅まくら」も買う

夕食の時の酒の肴を仕入れる

2008.12.11(木) 高校同級生会の忘年会で海ノ中道へ行く

今日の街角風景は、高校同級生会の忘年会で、福岡市東区の海の中道(うみのなかみち)

    にある大岳荘へ行ったことである。

    海の中道は、国宝の金印出土で知られる志賀島(しかのしま)と九州本土の福岡市

    北部をつなぐ陸繋砂洲で、全長約8km、最大幅約2.5kmである。この砂洲の北側は

    玄界灘の荒波にさらされ、南側は波穏かな博多湾に面している。この平らと思っていた

    海の中道の志賀島よりに大岳(おおたけ)という標高110m位の小さな山があり、今回

    の忘年会は、この大岳の麓の大岳荘で開かれたのである。

海の中道にある、国営海の中道海浜公園の傍を通りすぎる

     この国営海の中道海浜公園の場所には、かって海軍飛行場があったという。また、

     海の中道の福岡市営雁の巣(がんのす)レクリエーションセンターの場所には、

     かって陸軍飛行場があったという。また、元陸軍飛行場があった一角に、海の中道

     奈多海水淡水化センターが2005年4月に竣工し、日産5万立方メートルの最大

     造水能力でもって稼動している。海水の取水は玄界灘からで、処理済の濃縮海水は

     近くの浄水場に送られ、海水と同じ濃度に混合して博多湾に返されるという。        

志賀中学校前を右折し、大岳(標高110メートル位か)の麓の大岳荘に向う

今日の忘年会の会場の大岳荘に到着した

      この前方が西戸崎シ-サイドカントリークラブである。何人かは今日、大岳荘に

      宿泊し、明日ゴルフに興ずるであろう。

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

志賀島に通ずる海の中道から能古島の沖に、赤く輝く午後の太陽を見る

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

大岳荘にて

志賀島に通ずる海の中道から能古島沖に沈まんとする夕日を見る

JR福岡工大前駅(前の筑前新宮駅)から帰路につく

2008.11.29(土) 新橋周辺と羽田空港

今日の街角風景は、宿泊した東京都港区新橋の第一ホテル東京とJR新橋駅周辺および

    新しいD滑走路(2500m)と国際線ターミナルビル等の建設が進む羽田空港である。

新橋の第一ホテル東京の正面入口ロビー

第一ホテル東京2F 「花山」

朝粥朝食

ホテルの部屋から銀座方面を見る

ホテルの部屋から内幸町、有楽町の方角を望む

第一ホテル東京正面玄関

JR新橋駅前広場付近から第一ホテル東京を見る

JR新橋駅前広場から汐留跡地の地上200mを越える高層ビル群を見る

JR新橋駅汐留口から正面に、ゆりかもめ(東京臨海新交通)新橋駅を見る

    高層ビル群は左から汐留シティセンター、パナソニック電工、ロイヤルパークホテル、

    日本テレビタワーであろう。

東京モノレール浜松町改札口近くから汐留跡地の高層ビル群を望む

東京モノレールが天空橋駅から地上部に出た辺りの羽田空港

    建設が進むD滑走路(2500m)新設に伴う国際線地区のタ-ミナルとエプロンの工事

    現場である。向こうの中央に巨大なコントロールタワーが新設中である。左側に現在運用

    中のコントロールタワーが見える。向こうの中央部に横たわるのは旅客ターミナルビルで

    JAL等が使用中の第1旅客ターミナルビル、その背部にANA等が使用中の第2旅客

    ターミナルビルがある。

    新しいD滑走路(2500m)は、この写真の右手の多摩川の流域と一部交差する海上に

    建設中である。

    第1旅客ターミナルビルと建設工事現場の間にあるのが運用中のA滑走路である。

第2旅客ターミナルビルからD滑走路建設工事が進む羽田空港南方沖合を見る

    新しいD滑走路(2500m)は、実績のある埋立構造に、異なる構造を一体化する

    接続部を介して、多摩川の流れを妨げないための桟橋構造を組合わせたものという。

    なお、この新滑走路と今の羽田空港は連絡誘導路で結ばれるという。

ビッグバード1

(第1旅客ターミナル)

遅い昼食

ビッグバード2 (第2旅客ターミナル)

ANA福岡行きに乗り込み、東京を離れる。

2008.11.28(金) OB会出席のため東京・神田「ぼたん」へ行く

  今日の街角風景は、東京勤務時代のOB会に出席するため東京・神田須田町の「ぼたん」

   へ行った道すがらである。

福岡空港出発ロビー

ANA東京行きに乗る

眼下に明石海峡大橋を見る

眼下に関西国際空港を見る

浜松町プラットホームから芝離宮公園を見る

新橋駅前界隈

昼食をとる

年末ジャンボ宝くじが発売された当日の新橋駅前

内幸町交差点から日比谷公会堂と国会議事堂を望む

外堀通りの銀座西5丁目付近を通って神田の「ぼたん」へ向う

神田須田町界隈  

手前の食べもの屋の奥の路地を左に入ったところが、OB会の会場の鳥料理の「ぼたん」。

この一角に明治・大正のころから営業をつづけている{食べもの屋}が四軒もあるとのこと。

鳥料理 「ぼたん」     東京都千代田区神田須田町一丁目

     池波正太郎の食卓の情景(昭和55年刊、新潮文庫)のなかに「神田連雀町」と題して、

     次のような一文がある。

     

        太閤・豊臣秀吉が、徳川家康を関東に封じ、家康が江戸に本城をさだめたのは、

       天正十八年(1590)八月というから、約四百年もむかしのことになる。

        以来、家康は関東の経営に情熱をかたむけ、草深い海辺の村にすぎなかった

       江戸は年ごとに城下町として発展し、ついには、徳川幕府の「本拠」となるに至った。

        その江戸の、神田・連雀町は・・・秀吉が没し、家康が、ようやくに「天下人」としての

       実力をそなえてきた慶長年間に、商人たちの品物を背負う用具である連尺造りの

       職人たちが多くあつまっていたので「連雀町」と名付けられたものだそうな。

        神田・連雀町という町名は、昭和のはじめに、もう消えてしまっている。いまの千代田

       区神田須田町一丁目と神田淡路町二丁目の内が、むかしの連雀町であった。

        私どもの年配から上の人びとが、その一角を、いまだに「連雀町」と呼ぶのは、

       ひとえに、むかしの東京をなつかしむがゆえである。

        というのも、この一角に明治・大正のころから営業をつづけている「食べもの屋」が

       四軒もあるからだろう。

        この一角は、ふしぎに、太平洋戦争の空襲にも焼け残り、むかしの東京の町の

       香りを辛うじて残していることも、理由の一つになっているのだろう。

        先ず「藪蕎麦」である。

        東京が誇り得る数少ない名店の一つだ。

        すぐ近くに、あんこう鍋の「いせ源」と、鳥料理の「ぼたん」が、戦前のままの古びた

       姿で、客を待っている。この二店、連日のごとく、いまも大繁昌らしい。それに汁粉屋

       の「竹むら」の四軒である。

        神田の須田町の交差点から、この一角に入って行き、細い道を曲って「ぼたん」の

       前へでると、入口の軒先に「ぼたん」と書いた行燈がさがっているのだ。

        旧蝋。ふと、前を通りかかって、なつかしくなり、ぶらりと入って見た。

        それこそ三十年ぶりに、であった。

        入って、突き当りの廊下の奥の、庭に面した座敷へ通されたとき、

        (この座敷だったな・・・)

        はっきりと、おもい出した。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

     池波正太郎が書いてから、30年近く経った今も、この神田須田町の一角は変わらない

     ように見えた。     

  

鳥料理 「ぼたん」   

朱塗りの箱火鉢で備長の炭を赤あかとおこし、鳥鍋で酒をのむ

「ぼたん」にて

2008.11.8(土) 山口県の萩のまちを行く

今日の街角風景は、山口県の萩のまちを行ったときのものである。萩のまちは江戸時代

    から明治維新にかけての街並みが今にマッチして生きているまちである。

    萩城跡(指月城跡)から旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を見て、萩城城下町を通って萩博物館

    へ行き、松陰神社を周って、萩有料道路の萩市側入口傍の道の駅「萩往還公園」へ至る

    道筋であった。

萩城跡  別名指月城(しずきじょう)跡  国の史跡  慶長9年(1604)毛利輝元築城

   日本海に張り出した指月山(標高143m)の詰の丸と、その山麓に梯郭式に本丸、二の丸、

   三の丸を配し、三重の堀を巡らした平山城であるという。一方、平山城ではなく平城と山城

   であるといい、他方、海城であるという見解もあるという。

   今は無いかつての天守は複合式望楼型五層五階で赤瓦葺きであったという。明治7年

   (1874)、廃城令により、天守、櫓などの建物が破却されたという。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

    この建物の前の通りにある土産物店で、旅の記念に萩焼の中皿5枚を求めた。

萩博物館

萩博物館の長屋門から萩の町並みを見る

萩博物館で昼食をとり、お土産に「夏みかん丸漬」を求めた。これがすこぶる美味。

松陰神社

明治23年(1890)創建

松陰神社境内にある吉田松陰幽囚の旧宅   国指定史跡  萩市大字椿東字新道

松陰神社境内にある吉田松陰幽囚の旧宅の案内板

松陰神社境内にある松下村塾   右手奥に少し見えるのが吉田松陰幽囚の旧宅

     吉田松陰が身分や階級にとらわれずに教育を行った松下村塾。わずか2年半の歳月

     であったが、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など幕末から明治維新の原

     動力となった逸材を育てた場所だ。

     松陰の講義は門人の求めに応じて、一人一人を相手とする個別授業の形で行われて

     いたという。そしてその方法は、松陰自身が

       「余は穏かに人を諭し、自ら悟り、自ら省みる所あらしむる様にと心掛くる者なり」

     と述べているように、門人の自己教育を重視するものであったという。

     

     吉田松陰が、門弟たちに向けた辞世の歌の一つが

           身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魄

     である。

松陰神社境内にある松陰歌碑

親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん      寅次郎

    吉田松陰、通称寅次郎。

    安政6年(1859)幕府は安政の大獄により、長州藩に松陰の江戸送致を命ず。松陰は

    老中暗殺計画を自供して、自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に

    処さる。享年30(満29才没)

    獄中にて家族に宛てた遺書に遺した辞世の歌が、この歌碑に刻まれている。

伊藤博文旧宅

萩有料道路の萩市側入口傍の道の駅「萩往還公園」    中央の道が復元された萩往還

   萩往還は、城下町萩と瀬戸内の港町、三田尻(防府)を結んだ街道で、萩藩主が参勤

   交代などで通ったため御成道(おなりみち)とも呼ばれ、山陰と山陽とを結ぶ萩藩内の

   主要な街道であった。

   道の駅「萩往還公園」には松陰記念館があって、松下村塾の講義室が復元展示されて

   いる。

萩往還公園

萩往還はトンネルの上を越えたであろう。

2008.11.7(金) 電気クラス会で長門湯本温泉に行く

今日の街角風景は、電気クラス会に出席のため、長門湯本温泉に行ったことである。

電気クラス会が開かれた、山村別館     山口県長門市湯本温泉

     43年前に、卒業謝恩会で訪れたことがあるホテルだ。当時は木造の山村本館で

     あったが、その後建て替えられて山村別館となったという。本館跡は駐車場となって

     いるとのことだ。

山村別館 宴会場

電気クラス会

昭和40年の卒業32名で、現在30名の会である。

今日の会には12名が集まった。

二次会はカラオケルームでカラオケ競演と談笑であった。

長門湯本温泉の朝    正面の道を行くと大寧寺、俵山温泉に至る

長門湯本温泉の朝   右側にJR長門湯本駅  その向こうは長門市街と日本海

2008.11.6(木) 長崎市立岩町の高台から城山町を眺望す

  今日の街角風景は、長崎市立岩町の高台から、僕の生まれ育った城山町界隈を眺望する。

長崎市の稲佐山の北端に位置する立岩    その下の高台のスーパーの駐車場

    ここから僕の生まれ育った城山町界隈を眺望する。長崎市城山町は長崎市街地の

    北部に展開する町であり、戦前の新興住宅街であり、原爆で壊滅し原子野と化した

    町である。

立岩町の高台から北の方を望む

    右側の赤い屋根は宝栄町の活水女学院高等部、中央の赤レンガ色の建物は平和町の

    国際文化会館、その斜め左前方の森が松山町の原爆落下中心地である。左側枠外に

    城山町がある。

立岩町の高台から北の方を望む

    中央やや左手の建物が九電長崎支店、この建物を含む前方および左方が城山町。

    右端のビルに囲まれた森が原爆落下中心地で、九電長崎支店との直線距離は

    300メートル位であろうか。原爆落下中心地と九電長崎支店の間の奥にレンガ色の

    二つのドームを持つ浦上天主堂が見える。僕は原爆で廃墟となった悲しくも美しい

    レンガ造りの、マリアや天使の像で守られた荘厳な浦上天主堂を、今でも瞼の奥に

    はっきりと見る。

僕の生まれ育った城山町界隈    中央白い建物は城山小学校

城栄町商店街    街路樹は南京ハゼ

2008.11.5(水) 「工業会」に出席のため長崎に行く

今日の街角風景は、長崎勤務時代のOB会「工業会」に出席のため長崎に行った時の

    ものである。「工業会」は年に一度開かれており、これに出ることが楽しみなのだ。

「工業会」が開かれる長崎市筑後町のホテルセントヒル長崎

   あはれあはれ ここは肥前の 長崎か 唐寺の甍(いらか)に ふる寒き雨  (斉藤茂吉)

   歌人斉藤茂吉は、長崎医学専門学校の教授に任ぜられて、大正6年12月18日、午後

   5時5分に長崎駅頭に降り立ったと云われている。前述の歌は、この日の感銘だといわれて

   いる。

   唐寺の甍(いらか)にふる寒き雨・・と詠った唐寺とは、長崎駅前の丘にある筑後町の福済寺

   であったであろうか。あるいは福済寺と玉園町の聖福寺の二つの唐寺であったろうか。

   「工業会」が開かれる長崎市筑後町のホテルセントヒル長崎のわずか丘上に福済寺がある。

筑後町のホテルセントヒル長崎の前から西坂町方面を見る   

中央に尖塔を持つ建物は日本26聖人記念聖堂

筑後町から坂下の中町あたりを見る

ホテルの宴会室で見た斉藤茂吉の歌を書いた掛軸

長崎の 昼しづかなる 唐寺や 思ひいづれば白き さるすべりの花   (斉藤茂吉)

     斉藤茂吉は37歳の晩春から大正10年3月までの丸3ヵ年、ホテルのすぐ近くの

     上町(当時は東中町)に住んだという。

     この「唐寺や」の唐寺は、これまたホテルから程近い聖福寺であろうか。

工業会

夜の思案橋通りを船大工町方向へ歩く

船大工町のバービルについた

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード

ラウンジ シルク・ロード

2008.10.18(土) 福岡の鎮懐石八幡宮に遊ぶ

  今日の街角風景は、福岡県糸島郡二丈町深江の鎮懐石八幡宮に遊んだ時のものである。

   鎮懐石八幡宮御実記を始め、古事記、万葉集の鎮懐石(ちんかいせき)を詠める歌などに

   よると、神功皇后(息長足日女命 ; おきながたらしひめのみこと)は応神天皇を懐妊しな

   がらこの地を通って、朝鮮半島へ兵を出された時に、卵形の美しい二個の石を求めて肌身

   に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたという。願いは叶って帰国後、宇美(うみ)の里で

   応神帝をご安産された。

   そこで神功皇后が経尺の璧石(たまいし)を子負ヶ原(こぶがはら)の丘の上に、お手ずから

   拝納されてより、世人は鎮懐石と称して、その奇塊を崇拝するようになったという。

   昔は、深江宇津ノ上の石垣で築かれた高台に、ご社殿があり、数百年の年輪を刻んだ大き

   な松の木々が鬱蒼と生い茂っていたが、場所が狭く祭典にも不便を来たしていたので、昭和

   11年(1936)に南側山手の字萩ノ原の広い土地にご遷座し、幣殿、拝殿などを新築したと

   いう。

鎮懐石八幡宮  福岡県糸島郡二丈町深江子負ヶ原(こぶがはら)

鎮懐石八幡宮の由来を書いた石碑と柵内に祀られた舟繋石(ふねつなぎいし)

   鎮懐石八幡宮の鎮座の由来を刻んだ石碑は文化11年(1814)に建てられたという。

   石碑の碑文は刻んだ文字が風化磨耗しており、今はまったく読むことが出来ない。

鎮懐石八幡宮から北の方を見る   JR筑肥線の向こうは深江の海である

   昔は、鎮懐石八幡宮の社殿は、深江宇津ノ上の石垣で築かれた高台に、数百年の年輪

   を刻んだ大きな松の木々が鬱蒼と生い茂るなかにあったが、場所が狭く祭典にも不便を

   来たしていたので、昭和11年(1936)にこの萩ノ原の広い土地に遷座したという。

   

   昔の鎮懐石八幡宮は、ここから北の方の程近い唐津湾東部の深江の砂浜に石垣で築かれ

   た高台にあったことになる。

鎮懐石万葉歌碑     安政六年(1859)六月建立の九州最古の万葉歌碑とか

   万葉集巻五ー813および814の歌と怡土郡深江村の鎮懐石伝承が書かれている。

   天平元年(729)11月のころ、筑前の長官・山上憶良は管内巡行中、鎮懐石伝承の

   ふるさと、筑前の国怡土(いと)郡深江(ふかえ)村(現在の福岡県糸島郡二丈町深江)

   を訪れ、伝承の詳細と、みずからの感動を詠んだ長歌一首(万葉集巻五ー813)と

   反歌一首(万葉集巻五ー814)を詠んだ。 

鎮懐石万葉歌碑

天地(あめつち)の 共に久しく 言ひ繼げと

此の奇魂(くしみたま) 敷かしけらしも      

山上憶良 (万葉集巻五ー814)

   筑紫豊 訳 ; 天地のある限り、永久に言い継げと、この神霊をお置きになったのだろう。

鎮懐石万葉歌碑

左手に鎮懐石八幡宮  福岡県糸島郡二丈町深江子負ヶ原(こぶがはら)

2008.10.17(金) 福岡・雑餉隈界隈に朝鮮朝顔を見る

   今日の街角風景は、福岡・雑餉隈(ざっしょのくま)界隈の医院に咲く朝鮮朝顔と

    魚と菓子を買いに行った雑餉隈(ざっしょのくま)界隈のJR南福岡駅周辺の風景である。

福岡・雑餉隈(ざっしょのくま)界隈の医院に咲く朝鮮朝顔   トランペットリリーともいう

朝鮮朝顔  曼陀羅華(まんだらげ)  トランペットリリー    チョウセンアサガオ(ナス科)

     全株にアルカロイドを含み、葉と種子を薬用にする。華岡青洲が乳癌の手術に用いた

     麻酔剤には、この種子が配合されていたという。民間ではぜんそくの発作を止めるため

     に種子数粒を服用したようであるが、量を誤ったりすると猛毒のため発狂状態になる

     とのことで、キチガイナスビの名があるという。またマンダラゲ(曼陀羅華)ともいうと。

朝鮮朝顔  曼陀羅華(まんだらげ)  トランペットリリー    チョウセンアサガオ(ナス科)

JR南福岡駅

JR南福岡駅駐車場

プラットホームに隣接している

JR南福岡駅舎を出て右手方向を見る

JR南福岡駅舎を出て右手方向奥を見る   西鉄雑餉隈駅に通ずる元町商店街

JR南福岡駅舎2階から正面方向を見る

JR南福岡駅舎2階から正面方向を見る

JR南福岡駅舎1階の商店街

2008.10.5(日) 博多座に「恋ぶみ屋一葉」を観る

  今日の街角風景は、福岡市博多区下川端町の博多座に浅丘ルリ子主演の「恋ぶみ屋一葉」

  を観劇した。次の日のテレビは10年前に開場した博多座の入場者数が500万人を越えたと

   伝えていた。

福岡市博多区下川端町の博多座    前方は福岡アジア美術館

福岡市博多区下川端町の博多座正面入口付近

「恋ぶみ屋一葉」

    明治43年の東京を舞台に、樋口一葉にあこがれ今は恋文屋を営む奈津(浅丘ルリ子)

    と芸者嫌いで潔癖性の大作家・加賀美涼月(近藤正臣)、それに死んだはずの芸者・小菊

    (酒井和歌子)らが繰り広げる、明治の日本のやさしい恋の物語である。と宣伝文にいう。

    浅丘ルリ子、近藤正臣、酒井和歌子の幕毎の出入りは全て花道を使うという舞台であった。

    また舞台上の新聞売りに、博多の町にチンチン電車が開通したと言わせるのも面白かった。

博多座ロビー    前方に入場口

博多座1階から2階を見る

  博多座1階    弁当の屋台が並ぶ

博多座1階

博多座

博多座1階

博多座1階  花幸(はなこう)

博多座入場口から1階に通じる踊場

2008.9.15(金) 栗の実生る

今日の街角風景は、栗の実が生り、収穫したことである。渋皮煮にして若干の砂糖を

    加え、とっておきのコニャックを入れて渋皮マロン・グラッセとした。きわめて美味であった。

栗      クリ(ブナ科)秋の季語  

毬栗(いがぐり)、落栗、栗笑む、栗拾い、栗山、栗林、焼栗、栗飯などとともに秋の季語

行く秋や 手をひろげたる 栗のいが      芭蕉

収穫した栗

2008.9.9(火) 長崎の城山町界隈を行く

今日の街角風景は、爆心地から直線距離で1キロメートル位にある長崎市の城山町界隈

    である。僕の人生の47年間を過ごした街である。

城山町二丁目市場の外観   店は建物の中央通路に沿ってある

    昭和30年ごろ建った当時の花形市場だった。今は魚や、肉や、野菜や、果物やなど

    6、7店が営業しているだけだ。かってはこの市場から御用聞きが来て、配達がなされて

    いた。周辺に数軒あった、このような市場は、今はこの一軒をのこすのみ。

    ここには中華菓子の「おひねり」などの製造所もあり、勿論販売もしている。これが美味い。

城山町二丁目市場からよく行った稲佐山をみる

長崎に行く途中に立ち寄った長崎自動車道金立(きんりゅう)SA

2008.8.21(木) 九州国博に島津の国宝と篤姫の時代展をみる。

今日の街角風景は、福岡県太宰府市の九州国立博物館に島津の国宝と篤姫の時代展

    をみたことである。

    九州国立博物館は、国内で4番目の国立博物館として平成17年(2005年)10月16日

    オープンした。

    今日見た特別展「島津の国宝と篤姫の時代展」は、42日間の会期に入場者数15万人を

    越えそうという。その噂に違わず、特別展の場内は人々であふれかえっていた。

福岡県太宰府市の九州国立博物館

太宰府天満宮の参道から境内に入ったところにある菅原道真の歌碑

東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじな志とて 春なわすれそ

太宰府天満宮の太鼓橋を横目に進む

太宰府遊園前広場        太宰府天満宮の梅園を左に見る

右に行けば、九州国立博物館へのエスカレータートンネル入口だ

虹色にライトアップされる動く歩道トンネル    この先が九州国立博物館となる

島津の国宝と篤姫の時代展      九州国立博物館

この時代展の出口付近に現在放映中のNHK日曜ドラマ「篤姫」に

使われた衣装が展示されていた。

島津の国宝と篤姫の時代展      九州国立博物館

国宝 薩藩勝景百図(島津家文書の内) 江戸時代 文化12年(1815)

ここで昼食とした         太宰府天満宮参道

小野筑紫堂の梅ヶ枝餅をお土産とする       太宰府天満宮参道

2008.8.8(金) 南京ハゼやモミジの木に聴く蝉時雨

今日の街角風景は、南京ハゼの木の下やモミジの木の下に聴く、クマゼミの蝉時雨

    である。蝉の王者に相応しく、「ワシワシワシ・・・・・」と鳴くその声は迫力満点である。

南京ハゼの木の根元に咲くレインリリー     この木の下での蝉時雨は凄かった

モミジの木に鳴くクマゼミ

モミジの木に鳴くクマゼミ

2008.7.16(水) カサブランカの花咲く

今日の街角風景は、オリエンタル ハイブリッド リリーの代表格、カサブランカの花である。

   日本原産の山百合、鹿の子ゆり、笹ゆりなどを中心に交配、開発された百合の園芸品種で

   オリエンタルハイブリッド リリーの一種である。オリエンタルハイブリッド リリーは19世紀

   以降、主としてオランダで開発されてきたが、カサブランカの開発は最近のことで、1980年

   代といわれる。

   カサブランカの名前は北アフリカのモロッコの最大の都市カサブランカに由来するという。

   スペイン語で「白い城」を意味するとか。

   カサブランカという名前を聞けば米国映画「カサブランカ」が思い出される。1942年(昭和

   17年)に公開されたこの映画は、第二次世界大戦の最中の1940年(昭和15年)、パリ

   と仏領モロッコの都カサブランカを舞台に、ナチスの手を逃れてアメリカへ亡命しようとする

   人々とそれを助けようとする人々を描いた、夢と希望の映画だと思う。

   ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンが主演するこの映画で、

     「昨日はどこに・・・?    そんな昔のことは覚えてない。

         今夜会える・・・?     そんな先のことはわからない。」

   と二人が交わすことばの、ハンフリー・ボガードのキザとカッコヨサにシビレタこともあった。

カサブランカ             ユリ(ユリ科)夏の季語

百合の蘂(しべ) みなりんりんと ふるひけり      川端茅舎

カサブランカ             ユリ(ユリ科)夏の季語

カサブランカ             ユリ(ユリ科)夏の季語

花魁草(おいらんそう)        クサキョウチクトウ(ハナシノブ科)夏の季語

2008.6.22(日) 名古屋複合立体都市・JRセントラルタワーズ

今日の街角風景は、昨日に引き続き、JR名古屋ターミナル駅の直上に建つJRセントラル

   タワーズである。昨日は、新幹線のぞみ12号で博多を出てJRセントラルタワーズに入り、

   山本屋総本家の味噌煮込みうどんの昼食をとり、名古屋マリオットアソシアホテル52Fの

   フランス料理「ナゴヤミクニ」でディナーをとり、名古屋マリオットアソシアホテル25Fに宿泊

   した。

   今日は名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」で朝食をとり、JRセントラル

   タワーズプラザ13Fの三田屋(さんだや)本店でビフテキの昼食をとり、太閤通口地下街で

   名古屋の土産を仕入れて、新幹線のぞみ35号で名古屋を発って博多に向った。

   名古屋一の高層ビルとなったミッドランドスクエア(地上247m)の見学を除けば、この旅行

   は博多から新幹線でJR名古屋駅に行き、そして新幹線で博多に帰ってきただけのことに

   なる。即ち、二日間にわたって名古屋のJRセントラルタワーズを一歩も動かなかったのだ。

   JR名古屋ターミナル駅の直上に建つJRセントラルタワーズは、都市生活にオフィスや駐車

   場、百貨店やホテル、レストラン街などの付加価値のある様々な機能を結合させた「複合

   立体都市」であるという。

   名古屋一の高さは、僅か2mの差で隣のミッドランドスクエア(247m)に譲ったが、中部

   地区・名古屋のランドマークであることには変わりない。

広小路口から見るJRセントラルタワーズ

   11F迄がJRタカシマヤで、その上2Fがレストラン街(タワーズプラザ)の箱型のビルで、

   この箱型のビルの上に円筒型の二つのビルを乗せたツイン構造である。

   中層階の張り出しは15Fがスカイストリートと呼ばれる二つの円筒型のビルへの通路で、

   16F、17Fは宴会場である。

   左が53Fのホテルタワー(226m)で名古屋マリオットアソシアホテルが入っている。右が

   51Fのオフィスタワー(245m)でJR東海本社等が入っている。   

広小路口から見るミッドランドスクエアとスパイラルタワーズ

   ミッドランドスクエア(豊田・毎日ビルディング)は2006年9月竣工とか。左側にオフィス棟

   (247m)があるが写真には殆ど写っていない。1Fにトヨタのレクサスギャラリーがあった。

   JRセントラルタワーズとは地下通路で結ばれている。

   右に見えるのはスパイラルタワーズで宇宙空間の建造物かと思えるほどの斬新さだ。

   竣工は2008年4月とか。

名古屋マリオットアソシアホテル25Fの部屋から見たミッドランドスクエア

   地下6F、地上47F、高さ247m、屋上緑化の様子が見える。B2F~B6Fは駐車場で

   450台収納とか。

名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」の路地

名古屋マリオットアソシアホテル18Fの日本料理「華雲」の席から見たミッドランドスクエア

名古屋マリオットアソシアホテル25Fの部屋から見た名古屋城

JRセントラルタワーズプラザ13Fの三田屋(さんだや)本店

新幹線側の太閤通口地下街で名古屋の土産を仕入れる

新幹線側の太閤通口地下街で名古屋の土産を仕入れる

15:53名古屋発のぞみ35号で博多に向う    博多着は19:13だった

2008.6.21(土) 「ミクニナゴヤ」で食事のため名古屋に行く

今日の街角風景は、「ミクニナゴヤ」で夕食をとるため、JR名古屋ターミナルの直上に位置

  する、JRセントラルタワーズのホテルタワー53階に行ったことである。

8:30博多発のぞみ12号で名古屋に向う

JR名古屋駅中央コンコース桜通口の「金の時計」広場

この直上に世界一背の高い駅ビル「JRセントラルタワーズ」がある

    

JR名古屋駅桜通口から駅前ロータリーを見る

JR名古屋ターミナルの直上に位置するJRセントラルタワーズ

   左がホテルタワーで地上53F、226m    右がオフィスタワーで地上51F、245m

   タワーズ駐車場は14F、約1,500台収納  地下4F

   

   ビルの構造は11FまでのJR名古屋タカシマヤの上に、2Fのレストラン街(タワーズプラザ)

   を乗せ、その上に円筒形のビル、オフィスタワーとホテルタワーを乗せたツイン構造である。

   二つのタワーのエントランスストリートは15階にあり、スカイストリートと呼ばれ、眼下に

   名古屋の街とお城の眺望が拡がる。JR名古屋タカシマヤには東急ハンズ、三省堂書店

   なども入っている。オフィスタワーには勿論、JR東海本社も入っている。ホテルタワーには

   名古屋マリオットアソシアホテルが入っており、今日の夕食はこのホテルの53Fにある

   「ナゴヤミクニ」でとることにしている。

   

   駅ビルとしては、世界最高の245mの高さで「世界一背の高い駅ビル」といわれる。

   延べ面積も 416,565㎡ で、日本一広いビルだそうだ。

   1999年竣工、2000年にJR名古屋タカシマヤと名古屋マリオットアソシアホテルが

   オープンし、「複合立体都市」といわれるJRセントラルタワーズが機能を開始したと。  

  

JRセントラルタワーズの対面に位置するミッドランドスクエアから太閤通口を見る

左がJRセントラルタワーズのホテルタワー、 地上53F、226m

右がJRセントラルタワーズのオフィスタワー、地上51F、245m

JRセントラルタワーズのタワーズプラザの山本屋総本家で味噌煮込みうどんの昼食をとる

JRセントラルタワーズ15F   名古屋マリオットアソシアホテルのロビー入口

名古屋マリオットアソシアホテルの25Fの部屋からミッドランドスクエアを見る

   ミッドランドスクエア(豊田・毎日ビルディング)は地下6階、地上47階、高さ247mで

   ミッドランドスクエアの竣工は2006年9月で、1999年竣工のJRセントラルタワーズの

   オフィスタワーの高さ245mを抜いて名古屋一高いビルとなった。

 

名古屋マリオットアソシアホテル53Fの「ミクニナゴヤ」

   オードブルを盛る大きな皿のなんと豪華で美しいことか。調理していない食べられるか

   食べられないか分からない装飾モノは皿の上に一切出なかったことには感心した。 

   十数種のチーズとケーキのワゴンサービスを受けたが、かってに遠慮してか、少なめに

   チョイスしたことが悔やまれる。それだけチーズとケーキと紅茶も美味しかったということか。

名古屋マリオットアソシアホテルの25Fの部屋からライトアップされた名古屋城を見る

2008.6.14(土) 佐賀県有田のチャイナオンザパーク

  今日の街角風景は、孫に会いに行く途中に立ち寄った、佐賀県西有田町の深川製磁の

   工場内にあるチャイナオンザパークである。チャイナオンザパークは深川製磁の展示館、

   アウトレット館、レストラン、ラベンダーガーデン等から成っている。

深川製磁作品展示館  「忠次館」

    深川製磁の初代、深川忠次は1900年のパリ万国博に大花瓶を出品し、金賞を受賞。

    忠次の作品から現在までの作品を同時に展示している。

    深川製磁の磁器は山マーク(富士に雲)のブランドマークで知られている。透きとおる

    ような青色の染付けは「フカガワブルー」と呼ばれ有名だ。

レストラン 究林登(クリント)

カレーライスの昼食をとる   ここで使われていた楕円形の中皿を記念に求めた

忠次館前からチャイナオンザパークを見る

前方に有田の歴史と文化の森公園と、ほのお博記念堂が見える

2008.5.17(土) 福岡市南区大橋界隈を行く

    今日の街角風景は、親しい者と会食するため福岡市南区大橋界隈に行ったことである。

正面が西鉄大橋駅東口

西鉄大橋駅前を右折する

日赤通りを北上し、福岡市南区役所前にでる

今日の会食場所の駐車場     すぐ左手が福岡市南区役所

木曽路大橋店にて

白色のノイバラと紅色のミクロフィラ(サルビアの仲間)

ノイバラ   野茨(のいばら)        バラ科

      道の辺(べ)の 荊(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の

            からまる君を 別(はか)れか行かむ        

         右の一首は、天羽(あまは)郡の上丁丈部鳥(はせつかべのとり)のなり。  

                                      万葉集巻第20-4352

      万葉時代にノイバラは、荊(うまら)(宇万良)と呼ばれていたという。

      天羽(あまは)郡とは、千葉県君津郡の南部にあたるという。

      丈部鳥(はせつかべのとり)については、伝未詳とのこと。

              大意 ; 道のほとりのイバラの先に這いつく豆の枝のように、からまるあなたに

            別れて行くのであろうか。    (岩波日本古典文学大系7 万葉集)

シンピジウム

シンピジウム

シンピジウム

2008.4.27(日) 諫早に本明川を見る

   今日の街角風景は、親戚の法事の会食をした料理屋「魚莊」から見た長崎県諌早市を流れる

   本明川(ほんみょうがわ)の風景である。

   諫早市(いさはやし)は長崎県の中央部にあって、人口は14万人を越える長崎県第3の人口

   を有する都市である。

   2005年3月1日に北高木郡飯盛町、森山町、高木町、小長井町および西彼杵郡多良見町

   と合併し、人口14万都市となった。これによって、かって諫早市も属していた北高木郡は所

   属する自治体がなくなり、消滅した。

長崎県の多良山系に源を発する本明川(ほんみょうがわ)が諫早の市街地に入ってきた。

右岸(写真で左側)側は永昌(えいしょう)東町、左岸側は天満町、直近の橋は四面橋だ。

     昭和32年7月25日にこの地を襲った集中豪雨により起こった、本明川の大洪水は

     諫早大水害と呼ばれ、539名の人命を奪った。僕はこのとき高校1年で長崎にいて、

     忘れることのできない諫早大水害を知ったのだ。     

     この時の現地情報はアマチュア無線に頼るしかなかったといわれる。

JR諫早駅は右岸(写真の左側)にあって、それと並行する形で本明川は南下する

本明川が左にカーブして東行する辺り

  カーブしている向こう岸は天満町で旧諫早街道が通る歓楽街

諫早の市街地を東に流れ下る本明川   左岸側が城見町、右岸側が高城町

   右岸側の小山は高城址で今は諫早公園となっている。この諫早公園に、国指定重要文化

   財の眼鏡橋(天保9年(1838)5月起工、翌年8月完工の石橋)が移築、保存されている。

   かっては向こうの方の橋の近くに天保10年(1839)架橋の石橋・眼鏡橋があった。諫早

   大水害の時、本明川に架かるこの眼鏡橋が頑丈であったため、流失せず、流木等をせき

   止めて洪水の被害を拡大したのではないかとも言われている。

諫早の市街地を東に流れ下る本明川はやがて有明海にでる。

右岸側の小山は高城址(あるいは亀城址)で諫早公園となっている。

   諫早家の始祖 龍造寺家晴は諫早2万6200石で召抱えられた佐賀鍋島藩(37万7千石)

   の陪臣である。家督を継いだ龍造寺直孝は本藩に従属し、御親類同格とされていることに

   鑑み、龍造寺の姓を改め、伊佐早の地名からこれを縮めたを諫早とし、地名も諫早とした。

   諫早家は本藩より命ぜられた諸役の他に、長崎の警備を分担し、長崎街道を往来する長崎

   奉行などの公用の旅行者に宿舎や人馬を提供した。

2008.3.28(金) 対馬紀行・対馬空港から浅茅(あそう)湾を見て福岡に向う

  今日の街角風景は、対馬空港から浅茅(あそう)湾を見て福岡に向う風景である。

  魏志倭人伝に記された対馬の地名が21世紀の今でも毎日使用されている。平成16年3月に

  対馬は島全体が一つになって対馬市が誕生した。そして厳原、美津島、豊玉、峰、上県、

  上対馬などの島の地名も安易に改変されることはなかった。

  民族学者の谷川健一氏は次のように言っておられる。

    地名は単なる記号ではない。日本人の情緒を触発する媒体である。歌枕の多くは地名

    である。この歌枕をたどって芭蕉の「おくのほそ道」の旅はつづけられた。地名はまた、

    「大地に刻まれた百科事典の索引」である。地名は更に「時間の化石」である。・・・と。

万関橋を渡って対馬空港に近づく

       万関橋(まんぜきばし)は、明治33年、日本海軍が艦船の航路として人工的に開削した

   瀬戸に架かる橋で、現在三代目となる。

  対馬空港前から白嶽(しらたけ 519m)を遠望す

対馬空港   ヤブツバキの花が咲いている   対馬は「つばきの島」である

対馬空港売店  さざえと真珠のブローチをお土産に求める

福岡行きのB-737が入ってきた   懐かしいドルフィン号だ

空港を飛び立ち浅茅湾(あそうわん)上空へと上昇する

浅茅湾(あそうわん)

浅茅湾(あそうわん)

   魏志倭人伝のレポーターは、この浅茅湾(あそうわん)に入港し、対馬国を紹介したのでは

   ないかと思えてくる。波静かな浅茅湾(あそうわん)に入れば、安泰であったに相違ない。

浅茅湾(あそうわん)を見て、眼下の対馬空港をあとにする

機は福岡市の大濠公園を見て、福岡空港に着陸する。

これで対馬紀行を終える

2008.3.28(金) 対馬紀行・玄海つつじと豊玉町

  今日の街角風景は、豊玉町仁位から対馬空港寄りの国道382号線脇の玄海つつじの花と

  豊玉町仁位の中心部の風景である。

  魏志倭人伝に対馬国のことが記載されている。

  始度一海 千余里 至対馬(対海)国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百

 

  余里 土地山険多深林 道路如禽鹿径 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

  ( 始めて一海を渡り千余里で対馬国に至る。その大官は卑狗(ヒコウ、ひこ、ひく)といい、

   副官は卑奴母離(ヒドボリ、ひなもり)という。居する所は絶島で、およそ四百余里四方で

   ある。土地は山が険しく、深い森が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千戸余りの家

   がある。良田は無く、海産物を食べて自活している。船に乗って南北に行き、商いをして

   穀物を買い入れている。 )

  魏志倭人伝にいう対馬国とは、この地、豊玉町一帯ではなかったろうかと思えてきた。

玄海つつじ

玄海つつじ

玄海つつじ

つつじいけて 其陰に干鱈(ひだら) さく女        芭蕉

ホテルから見た霧立ち昇る豊玉町仁位の森

ホテルから見た豊玉町文化の郷

  公会堂、郷土館、文化会館をもつ公園である。豊玉姫の大きな白い像も建っている。

対馬市豊玉支所庁舎   対馬市議会も入っている

対馬市議会議場の前にあるスーパー

対馬市議会議場の前にあるスーパー

対馬市議会議場の前にあるスーパー    水槽には魚が泳いでいるのだが・・・

長崎県立豊玉高等学校

2008.3.27(木) 対馬紀行・海幸彦、山幸彦の地、豊玉町を行く

  今日の街角風景は、海幸彦、山幸彦の伝承をもつ対馬豊玉町仁位の和多都美(わたづみ)

  神社である。

  山幸彦(やまさちひこ)である弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が、海幸彦(うみ

  さちひこ)である兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)の釣針を借りてこれを失い、海岸をさま

  よい歩くうちに塩土老翁(しおつちのおじ)(場所を教える神)に逢い、籠の中にいれられて

  海に沈められる。たちまちに海神宮(わたつみのみや)に至る。と日本書紀にあるという。

  和多都美(わたづみ)神社の主神は山幸彦である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と

  かれが通じて一児を生ませたという豊玉姫命(とよたまひめのみこと)であるという。

  この地を訪れ、一見して厳島神社の原型がここ和多都美(わたづみ)神社にあると思った。

和多都美(わたづみ)神社の海中の鳥居   対馬市豊玉町仁位・浅茅湾(あそうわん)

和多都美(わたづみ)神社の海岸ぎわの鳥居は先の台風で損壊し、新調された

海中の鳥居を背に和多都美(わたづみ)神社正面を見る

  鳥居の先の本殿の左脇まで潮が入ってくる。左に三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそら

  えびす)が見える。

和多都美(わたづみ)神社本殿に向って右側を流れる川     潮があがってくるはずだ

和多都美(わたづみ)神社本殿参道

和多都美(わたづみ)神社本殿      対馬市豊玉町仁位・宇和宮

和多都美(わたづみ)神社本殿に向って左側にある三柱鳥居と細石(さざれいし)

  この奥に豊玉姫(とよたまひめ)の墳墓といわれるものがあるが、磐座(いわくら)とはこういう

  ものだと思われるような神秘的な場所である。

和多都美(わたづみ)神社   三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそらえびす)

   海とつながっており、潮の干満がある、一つの神社に二つの三柱鳥居があるのは極めて

   珍しいというより、全国で唯一ではなかろうか。 

和多都美(わたづみ)神社   三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそらえびす)

   三柱鳥居に祀られたこの岩は磯良恵比須(いそらえびす)といわれている。背面に鱗状の

   亀裂が見られるこの岩は、今もなお神聖な霊場として祭られている。これを磯良(いそら)の

   墓とした伝説があるが、これは社殿が営まれる以前の古い祭祀における霊座か、それとも

   御神体石だったのではないかと思われる。というようなことが白い案内板にみえる。

   この地は海から社務所のところまで潮が満ちてくる中間にある。いま潮が引いている。

   磯良(いそら)は安曇(あずみ)氏の祖神で神功皇后三韓征途に際し、水先案内をしたという。

   安曇(あずみ)、阿曇(あずみ)、海人(あま)、海部(あまべ)などとさまざまに表記される古代

   の海人族は、古代日本を両分するほどの巨族であったという。 

 

豊玉町仁位(にい)のホテル   ここで念願の対馬名物「いりやき」を食す

2008.3.25(火) 対馬紀行・城下町厳原を行く

今日の街角風景は、長崎県対馬市厳原町の武家屋敷跡が残る城下町の風景である。

   12世紀には対馬藩主、宗(そう)氏の始祖・惟宗(これむね)氏が筑前の宗像(むなかた)郡

   から対馬に入国する。対馬守護、地頭であった大宰府の小弐氏の代官として、次第に対馬

   での実権を握って、宗(そう)家の始祖となったという。建久6年(1196)宗家の始祖・惟宗氏

   の名前が対馬の在庁官人のなかに初めて見られるという。

金石(かねいし)城跡    対馬市厳原町金石   清水山の麓

    金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

    (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたって、宗家の居城であった。

    写真の遺構は、平成2年に発見されたものという。

対馬歴史民族資料館の前庭に建つ朝鮮国通信使之碑   右側にヤブツバキの花

   対馬歴史民族資料館は厳原町の中心、今屋敷にある。このすぐ奥に金石城跡の櫓門が

   ある。

韓国旅行団が対馬歴史民族資料館見学に訪れた

朝鮮国通信使之碑の横に建つ珠丸遭難者慰霊塔    厳原町今屋敷

   先の大戦を生き延びた九州郵船の珠丸(たままる)(800トン)(博多~対馬~釜山航路)は

   昭和20年(1945)10月14日、連合軍の航行差止めが解かれて、戦後はじめて対馬から

   博多への航海に出発した。船が壱岐・勝本の北方約16マイルにさしかかった午前9時ごろ

   機雷に触れ爆沈した。乗船名簿によると730名乗船ということであった。

   今なお対馬海峡の海底深く珠丸とともに眠っている方々の慰霊のため建立された。

武家屋敷塀の残る道を行く

 武家屋敷塀の残る道を行く

半井桃水生誕の地

   半井桃水(なからいとうすい)は樋口一葉の小説の師ではあるが、一葉の想われ人として

   知られている。

   半井桃水は万延元年(1860)対馬厳原の生まれ。藩主宗家の御典医の家の長男。東京

   朝日新聞入社、小説記者、代表作に朝鮮半島を舞台にした「胡砂(こざ)吹く風」、「春香伝」

   などがある。大正15年没、享年65

   

   樋口一葉(明治5年(1872)~明治29年(1896)

   一葉日記の明治24年(1891)4月15日の項に、初めて桃水を訪ねた記述に「色いと白く

   面ておだやかに少し笑み給えるさま誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人

   にすぐれて高く肉豊かにこえ給えばまことに見上る様になん」とあるという。

   

   焼き捨てよと妹くにに手渡された一葉の日記は、死後15年を経て公開され、そこに記された

   桃水への尽きぬ思いは多くの人々に衝撃を与えたという。

八幡宮神社

藩校・日新館門    長崎県指定有形文化財・建造物    対馬市厳原町桟原

    元対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校・日新館に用いられた。江戸末期

    における大名家の格式を備えた武家屋敷門としては長崎県唯一のものである。

    日新館は幕末、対馬勤王党の拠点であったが、藩の内紛によりその多くが憤死して、痛恨

    の歴史を遺したといわれる。

    昭和45年、長崎地裁厳原支部の改築工事に伴い解体・保存していたものを平成4年に

    復元したとのこと。   

藩校・日新館門の前の国道382号線

2008.3.25(火) 対馬紀行・厳原町お船江跡から万松院へ

今日の街角風景は、福岡から空路対馬を訪問し昨夜来の雨も上がった対馬市厳原町お船江跡

  から万松院へと続く風景である。

  厳原(いずはら)は鎌倉時代、宗氏が現在の対馬市峰町佐賀から文明18年(1486)に移館

  以来、明治維新まで約380年間の城下町で、府中、府内とよばれ、維新後、厳原(いずはら)

  と改称された。

  

  対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原町におかれ、金石屋形(かねいし

  やかた)と桟原屋形(さじきはらやかた)の居城があった。

  徳川時代初期の領地石高は、対馬国が無高、肥前基肄(きい)・養父(やぶ)郡が1万石(佐賀

  県田代領)の合計1万石であるが、幕府の朝鮮貿易を任されていたので、対馬藩宗家の格式は

  10万石であったとされるとのことである。文化14年(1817)に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前

  怡土(いと)郡(福岡県)、下野安蘇(しもつけあそ)・都賀(つが)(栃木県)の2万石を加増され

  た。

対馬藩お船江跡  長崎県指定文化財  対馬市厳原町久田

対馬藩お船江跡は厳原の南方約2kmにある。久田浦にそそぐ久田川川口に5基の

船着場があり、対馬藩お船屋の跡である。現在の遺構は寛文3年(1663)の造成

という。築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。

江戸時代、水辺の藩はその藩船を格納するお船屋を設けていたが遺存例の乏しい

現在、日本近世史上貴重な遺構であるという。今も久田浦に往時の美しい姿を映す。

対馬藩お船江跡    往時の復元船が舫っていた

  対馬名物「かすまき」の菓子店   餡のカステラ巻といったところ

この料理屋で昼食をとる

昼食はサザエ刺身定食  さすが対馬の魚介類は美味しい

西山寺(せいざんじ)

天安元年(857)島分寺が炎上した翌年、国府嶽(こうだけ)の麓に大日堂

を建てたのが大日寺と号するようになり、これがこの寺の起源だといわれる。

永正9年(1512)宗 貞国夫人の菩提寺となったことから、その法号にちなん

で西山寺(せいざんじ)と改めたという。入口の石段、石垣も見事という外ない。

西山寺下の道路から清水山(206m)を望む   厳原中心部の西にある

   森が伐採されて地肌のように見えるところがある。頂上から清水山城の一の丸、二の丸、

   三の丸と通称される城壁や石塁が残る郭(くるわ)跡である。 これらは国の史跡に指定

   されている山城の遺構である。

   豊臣秀吉の朝鮮出兵時の、いわゆる文禄慶長の役の兵站城であった清水山城址である。

   本丸(一の丸)の規模は東西約50m、南北約40mで城内の跡および枡形が残っていると

   いう。二の丸、三の丸の規模もこれに準じるとのことである。

   

清水山城の二の丸、三の丸の遺構   万松院や金石城跡は清水山の麓にある

   朝鮮出兵に際し天正19年(1591)8月、築城令が発せられ肥前の名護屋城、壱岐の勝本

   城とここ対馬の清水山城が築かれた。当時の対馬領主・宗義智が主力となり築城したといわ

   れている。

   清水山城の遺構のなかに秀吉の御座所にあてられた建造物の形跡が判明しないのは真下

   にある金石城を御座所にあて、この清水山城は背後の要塞であったというのが通説とか。

万松院(ばんしょういん)    国指定史跡    対馬市厳原町西里・金石

   元和元年(1615)第20代対馬藩主、宗義成(そうよしなり)が父・義智(よしとし)の菩提を

   弔うために創建し、父の法号に因んで「万松院(ばんしょういん)」としたという。

   万松院の建物は数度の火災により焼失したが、桃山様式を残すこの山門と両側の仁王尊

   のみが、昔の面影を留めているという。

万松院(ばんしょういん) 仁王尊

万松院墓地  百雁木(ひゃくがんぎ)  132段の石段

   万松院の墓地である。桃山様式を残す山門の脇から、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる

   132段の自然石の大石段を上ったところにある。

金石城(かねいしじょう)跡   清水山の麓、万松院の隣にある

   金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

   (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたり宗家の居城であった。

   写真の遺構は平成2年に発見されたという。驚きだ。

2008.3.5

2008.3.8(土) 伊都国の王都 三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡を行く

今日の街角風景(2/3)は、福岡県前原市の三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡を行くである。

 三雲・井原遺跡は魏志倭人伝に記された伊都国の王都に比定されている遺跡である。

三雲・井原遺跡は福岡県前原市に在って、遺跡の面積は瑞梅寺川と川原川に挟まれた

約60haの三角地で、その規模は弥生時代最大級という。

前原市(まえばるし)大字三雲(みくも)字寺口(てらぐち)にある前方後円墳

左の森が築山(つきやま)古墳

築山(つきやま)古墳

中国の史書「魏志倭人伝」に記された「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳

築山(つきやま)古墳    前原市(まえばるし)大字三雲(みくも)字寺口(てらぐち)

前方部は北西を向くが、現在前方部、後円部とも一部破壊されている

築山古墳周濠区画復原図

 前方部は北西を向くが、現在前方部、後円部とも一部破壊されている。1974年(昭和49年)の

 調査で、墳丘の全長約60m、後円部の直径約49m、高さ約8m、前方部の長さ約15m、

 幅約25m規模の後円部に比べ前方部が短い、帆立貝式の前方後円墳であるという。斜面には

 葺石(ふきいし)が施され、周囲には盾形の周濠が廻っていたようで、周濠を含む全長は約150

 mになるという。主体部は未調査だが、周濠から壺形埴輪や円筒埴輪が出土していて、築造は

 四世紀末頃と考えられているようだ。

 この築山古墳の北にある端山(はやま)古墳に後続して築かれたと考えられているという。

 

 築山古墳から雷山(らいざん 955m 左のピーク)を望む

築山古墳の北側に端山(はやま)古墳がある

右端に見えるのが端山(はやま)古墳     左の森は築山古墳

端山(はやま)古墳   やはり前方後円墳である

築山古墳前から東方に高祖山(416m)を望む   この山の向こうは福岡市西区    

前方の田畑一帯が遺跡である

築山古墳前から東方を望む    

前方を右に上ると日向(ひなた)峠で、その向こうは福岡市早良区である

築山古墳前から南方に井原地区と井原山(983m)、雷山(955m)を望む

山の向こうは佐賀県である

築山古墳前から南方に井原地区と井原山(983m)、雷山(955m)を望む

築山古墳前から東南方に井原地区を見る   カチカラスが一羽

今年の土筆は遅い

2008.3.6(木) 雪を見に三瀬トンネルを越える

今日の街角風景は、前々夜の雪が残るであろう国道263号線の三瀬トンネルの

佐賀県三瀬村側である。

背振山系の福岡、佐賀県境の国道263号線の三瀬峠は雪のため通行禁止で

あり、峠の下を走る有料の三瀬トンネルを通って佐賀県三瀬村にはいった。

福岡市早良区の石釜地区から背振山系を見る。  この背振山系の右側に三瀬峠がある。

石釜豆腐が有名な福岡市早良区の石釜地区   国道263号を上る

三瀬トンネル佐賀県側

三瀬トンネル佐賀県側休憩所の駐車場

三瀬トンネル佐賀県側休憩所の駐車場

三瀬村産品販売所から三瀬トンネル方向を見る

三瀬村産品販売所から三瀬トンネル方向を見る

三瀬村産品販売所から三瀬トンネル方向を見る

三瀬村産品販売所から下りの三瀬村中心部に向う国道263号

佐賀県三瀬村の中心部を見る

三瀬の蕎麦や

三瀬の蕎麦やで昼食とした。

2008.2.25(月) 前原市三雲地区から雷山を遠望す

今日の街角風景は、福岡県前原市(まえばるし)三雲地区から雷山(らいざん 955m)など

 周囲の風景を遠望したときのものである。

 前原(まえばる)は魏志倭人伝に記された伊都(いと)国であり三雲地区や井原地区は、その

 伊都(いと)国の国原であったに違いない。

三雲地区から南南西の方向に冠雪した背振山系を望む

右方のピークが雷山(らいざん 955m)  

中央やや左奥のピークが井原山(いはらやま 983m)

 柿本人麿が万葉集に詠った「雷岳(いかづちのをか) 万葉仮名で雷之上」、「雷山(いかづち

 やま) 万葉仮名で伊加土山」は、この雷山(らいざん 955m)ではないかとする説がある。

 

 万葉集巻三の雜歌

    天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首

  大君は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の 雷の上に 廬(いほ)らせるかも

    右、或る本に曰はく、忍壁皇子(おさかべのみこ)に獻(たてまつ)るといへり。

    その歌に曰はく、

    王(おほきみ)は神にし座(ま)せば雲隠(がく)る雷山(いかづちやま)に宮敷きいます

                                           万葉集巻三ー235

  岩波古典文学大系4の万葉集の注釈と大意は次の如し。

  天皇 : 未詳。人麿の作歌だから天武・持統・文武の三帝のうちであろう。持統天皇か。  

  

  雷岳(いかづちのをか) : 奈良県高市郡明日香村雷にある丘。異説がある。

  忍壁皇子(おさかべのみこ) : 忍坂部・刑部とも書く。天武の第九皇子。

  (大意)大君は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上にいほりしておいでになることである。

  雷山の頂上近くには天ノ宮として石宝殿があり、中腹には雷(いかづち)神社がある。万葉集

  に詠われた「雷岳(いかづちのをか) 万葉仮名で雷之上」あるいは「雷山(いかづちやま)

  万葉仮名で伊加土山」が、この雷山(らいざん 955m)であるとすれば、標高955mと高く

  似つかわしいなあと思えてくる。

三雲地区より南方に井原地区、そのむこうに井原山のある背振山系を望む

三雲地区より東方に高祖山(たかすやま 416m)を望む

三雲地区より北北西の方向に可也山(かやさん 365m) 別名筑紫富士を望む

土筆   今年は遅いようだ

2008.2.23(土) 春日市を通る新202号線沿いのスーパーに行く

今日の街角風景は、福岡市と春日市の境を通る一般国道新202号線沿いのスーパーに

 行った時のものである。

左側の高架は福岡都市高速5号線  春日市須玖北(すくきた)付近

その下は一部供用開始された一般国道202号福岡外環状道路

向こうに背振山系と油山が見える

現在の国道202号線は福岡市の博多駅近くの国道3号線と交わる堅粕一丁目交差点

を起点として祇園(旧国鉄博多駅のところ)、中洲を通る国体道路を通って、唐津市から

佐世保市、長崎県西彼杵半島の西海市を経由して長崎市に至る全長約200キロメートル

の一般国道である。福岡市の東西を貫通する国道202号線は、2010年には一般国道

202号福岡外環状道路として福岡市の南半分をカバーする福岡外環状道路の完成を

待って新しく国道202号として全面供用開始されるとのこと。

食品スーパー

右奥は、まだ工事中の一般国道202号福岡外環状道路

ここで井尻六つ角から春日市に向う県道31号線と交差する

食品スーパー

食品スーパー

食品スーパー

食品スーパーの2階駐車場から背振山(1055m)を望む  

2008.2.14(木) 福岡・那珂川の上流を行く

今日の街角風景は、福岡市の中心、中洲を流れる那珂川の上流、福岡県筑紫郡那珂川町の

  市ノ瀬地区を通って国道385号線を南下し、新規開通した東背振トンネル(有料)を通り佐賀県

 の道の駅「吉野ヶ里」に至る風景である。

  このルートの東側には、現在工事中の九州新幹線鹿児島ルートの博多南駅~新鳥栖駅(仮称)

 を結ぶ全長約12キロの筑紫トンネルが貫通しているそうだ。筑紫トンネルは平成14年7月に工事

 を開始し、平成19年12月1日に貫通式を挙げたという。

福岡県筑紫郡那珂川町の市ノ瀬地区を流れる那珂川     この上流域が筑紫耶馬溪

前方の山が九千部山 (くせんぶやま 847m)で、その下を筑紫トンネルが貫通している

    筑前国続風土記(貝原益軒編纂 元禄16年・・1703年に黒田藩主に献上)巻之六

   那珂郡下の 「一瀬(いちのせ)村」の項の冒頭に次のように記されている。

     那珂川の上流にて、是より五箇山へ越所、川瀬ある故に、一瀬といふにや。村は

     高き所にあり。後は山、前は川、向(むかひ)にも山ありて、佳景也。しかれども谷水

     の音常にかまびすし。又此所に一嶽といふ古城あり。・・・・・・

那珂川町の市ノ瀬地区の那珂川端の中ノ島公園駐車場

正面の山が福岡、佐賀県境の九千部山

写真の左手から 九千部山の下を通って九州新幹線の筑紫トンネルが貫通している筈だ

市ノ瀬地区の那珂川の下流域   橋の向こう側に日吉神社が鎮座まします

日吉神社

日吉神社

日吉神社

那珂川の最上流域にある南畑(みなみはた)ダム   ここは那珂川町五ケ山地区だ

ダムの水位は相当下がっている

福岡側から最近開通した東背振トンネル(有料)を通って佐賀県側の道の駅「吉野ヶ里」に着く

道の駅「吉野ヶ里」から北方に、いま通ってきた東背振トンネル方向を見る

道の駅「吉野ヶ里」から南方に佐賀平野を見る   

史跡吉野ヶ里は右方の山襞に隠れて見ることが出来ない

2007.12.22(土) 長崎に行き、四海楼で昼食をとる

今日の街角風景は、長崎に用事があり、福岡から長崎に着いて、中華料理の四海楼で昼食を

とったことである。たまたま飛鳥Ⅱが寄港中で、四海楼5階のレストランから飛鳥Ⅱを見ながらの

昼食となった。

四海楼前から大浦天主堂やグラバー園のある南山手を見る

中華料理の四海楼入口階段の右手に建つ千里眼の像

四海楼5階のレストランから飛鳥Ⅱを見る

四海楼5階のレストラン

四海楼5階のレストラン

豚の角煮

ちゃんぽんと柔らか麺の皿うどん

四海楼5階のレストラン

長崎港に入港中の飛鳥Ⅱ

長崎港に入港中の飛鳥Ⅱ

2007.12.19(水) 高校同級生福岡会の忘年会を宗像で開く

今日の街角風景は、高校同級生福岡会の忘年会を福岡県宗像市の、アレッタサンリブ

くりえいと宗像店で開いたことである。

鹿児島本線JR赤間駅  アレッタサンリブくりえいと宗像店はこの駅から西北に約800mである

鹿児島本線JR赤間駅  駅舎の向こうに僅かに見えるのは城山(じょうやま369m)か

 鹿児島本線JR赤間駅から北九州方角を見る

  JR赤間駅コンコースで皆の到着を待ってくれている

サンリブくりえいと前広場  左向こうに見える山は孔大寺山(こうだいじやま499m)か

忘年会会場  アレッタサンリブくりえいと宗像店

アレッタサンリブくりえいと宗像店

アレッタサンリブくりえいと宗像店

記念写真

サンリブくりえいと近くのカラオケ店

2007.12.9(日) 福岡県久山町のレークサイドホテルで昼食をとる

今日の街角風景は、福岡県糟屋郡久山町にあるレークサイドホテルで昼食をとったことと、隣町の

宇美町の宇美八幡宮を訪ねたことである。

 福岡県糟屋郡久山町にあるレークサイドホテルのレストランで昼食をとる。このレストランの隣に

 貝原益軒の資料展示室があった。

レストランから外を見る

レストランから外を見る

レストランから外を見る

レークサイドホテル久山の中庭にて

宇美八幡宮湯蓋の森  天然記念物  樟で樹齢2000年を越すといわれている

宇美八幡宮にて

2007.12.8(土) 拡大二水会(同期会)を博多駅前で行う (2/2)

今日の街角風景は、何時もの二水会を拡大し、同期入社で長崎に配属された仲間も一堂に会して博多駅前で開いた同期会の三次会、四次会の模様である。

中州を通って西中洲の「すくーる」へ向う   三次会だ

 

西中洲「すくーる」

「すくーる」

西中洲をお開きにして、中州のクラブへ向う  四次会だ

楽しさの余韻を残して帰路につく

2007.12.8(土) 拡大二水会(同期会)を博多駅前で行う (1/2)

 JR博多駅筑紫口のホテルセントラーザ博多

 

  今日の街角風景は、何時もの二水会を拡大し、同期入社で長崎に配属された人々も一堂に会して

 博多駅前で開いた。

 

 

  ホテルセントラーザ博多の食堂街入口

  地下2階の宴会場 「萬喰」

今回は東京、鎌倉、大阪、広島、長崎から駆けつけてくれた。次回は長崎で会おうと誓いあった。

  一次会をお開きにした頃のJR博多駅

ホテルセントラーザ2Fのティーラウンジ「ザ・ラウンジ」にて

 ホテルセントラーザ2Fのティーラウンジ「ザ・ラウンジ」にて

 E君が所属する男性合唱団がドイツに演奏旅行を行い、彼の地の新聞にも報ぜられたとのこと。

 この話題にひとしきり花がさいた。

「ザ・ラウンジ」にて

 「ザ・ラウンジ」にて

 「ザ・ラウンジ」にて

 「ザ・ラウンジ」を出る

 ホテル・セントラーザ博多前にて

ホテル・セントラーザ博多前からJR博多駅筑紫口を見る

2007.11.24(土) 筑紫耶馬溪から吉野ヶ里まで

今日の街角風景は、筑紫耶馬溪から吉野ヶ里までである。


福岡市の中心を流れる那珂川の上流山峡は筑紫耶馬溪と呼ばれる。

そこに造られた南畑ダム


筑紫耶馬溪 南畑ダムのすぐ上流域


筑紫耶馬溪 南畑ダムのすぐ上流域


筑紫耶馬溪から国道385号線を新設の東背振トンネルを抜けると

道の駅「吉野ヶ里」が姿を現す


道の駅「吉野ヶ里」


道の駅「吉野ヶ里」から佐賀平野を見る。吉野ヶ里遺跡は右前方の山影

にあって、見えない。


吉野ヶ里遺跡の西方から遺跡を遠望する。前方横に拡がる低い丘陵が

吉野ヶ里遺跡でその全体の半分くらいが見えている。


吉野ヶ里遺跡は吉野ヶ里歴史公園として国営で整備されつつある。


JR吉野ヶ里公園駅の北口に建つコミュニティーホール


JR吉野ヶ里公園駅コミュニティーホールから北方に背振山脈を見る

吉野ヶ里歴史公園はこの左方1km位のところにある

2011/09/28

2007.11.6(火) 諫早市・慶巌寺の磨崖仏三十三観音を見る

今日の街角風景は、長崎県諫早市の慶巌寺の磨崖仏三十三観音である。

砂岩の岩肌に、かっては33体の菩薩像が彫刻されていたという。

観音菩薩が33に変化し、衆生を救済するという三十三観音思想と庶民の

救いを求める願望が合致して磨崖仏三十三観音が彫られたという。

成立は多良岳山岳信仰が盛んであったという14世紀後半の南北朝時代で

あろうか。


長崎県諫早市城見町の慶巌寺の崖下に磨崖仏三十三観音が彫られている

慶巌寺の建立は慶長10年(1605年)であり、八橋検校がここ慶巌寺で

筝曲「六段」を創ったという。

この磨崖仏三十三観音の前の道路が旧諫早街道であり、諫早の永昌宿から湯江宿、追分

あたりまで有明海沿線に沿って通じており、浜街道とも呼ばれていたそうだ。


諫早・慶巌寺の崖の磨崖仏三十三観音


諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音


諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音



諫早・慶巌寺の磨崖仏三十三観音

画面の右上隅に赤い線が見えるであろうか。昭和32.7.25(1957)の

諫早大水害のときの水位の上昇地点を赤い線で刻んでいるのだ。その高さは

3メートルに近い。


諫早の眼鏡橋

の磨崖仏三十三観音の前の旧諫早街道から本明川を挟んで眼鏡橋を見る。

かっては、ここより左手の少し下流側にあったが、諫早大水害でも崩壊せず、

本明川の一級河川昇格に伴う川幅拡幅工事の際に解体され、現在の諫早公園に

復元されたとのこと。

諫早の眼鏡橋は天保10年(1839年)開通、国指定重要文化財で、

長さ45m、 幅5m、 高さ6mとのこと。



旧諫早街道を慶巌寺から少し行った、水害前の眼鏡橋が架かっていた辺りの店で

名物のうなぎをとって昼食とした。

2007.11.5(月) 会社OB会「工業会」で長崎に行く

今日の街角風景は、長崎勤務時代の会社OB会「工業会」が長崎で

開かれたときのものである。


ホトトギス (時鳥草)

  秋の季語

     時鳥草 岩かげくらく 咲きにけり    魚眠


ピラカンサ (トキワサンザシ)


長崎自動車道の金立SA  

向こうに円墳群を配した、古墳公園が見える。

この古墳公園は金立SAの南東500メートルにあった丸山遺跡が、自動車道の

工事に引っかかるため、ここに移設し公園として整備したという。


金立SA


長崎勤務時代の会社OB会「工業会」  長崎市の天然温泉「イオス」にて

地元長崎はもとより、東京、大阪、上海からもかけつけてくれた。

皆が社会貢献や趣味などに、元気一杯で活躍されている話をお聞きし、

楽しい宴であった。


長崎市の天然温泉「イオス」にて先輩と。


宴会場をあとに長崎駅へ向う


JR長崎駅コンコース


長崎新幹線着工期成同盟の横幕がかかる長崎駅前

2007.10.30(火) 長崎市城山町界隈

今日の街角風景は、小学校1年生の3学期から40年間以上を過ごした、

僕の故郷、長崎市の城山町界隈である。


長崎に向う途中に立ち寄った長崎自動車道の大村湾PA


城山町界隈


城山町界隈


城山町界隈


甘柿


ムクロジ (無患子)

球形の果実には、堅くて黒い種子が1個入っており、これを羽根つきの

羽根の玉にする。

  秋の季語

    からからと むくろじの鳴る 梢かな   ひで女


金木犀


金木犀


金木犀

2007.10.21(日) 福岡市南公園の福岡市動物園に行く

今日の街角風景は、孫と福岡市中央区南公園の福岡市動物園に行った

ときのものである。


福岡市動物園  ぞうさん


福岡市動物園  レッサーパンダ


福岡市動物園  キリン  キリンは背が高い?いや、首が長いのだ。


福岡市動物園中央広場付近を上から見る


福岡市動物園に住みついた鷺であろう


福岡市動物園  人が二重扉を通って中に入る大きなバードケージ内の

フラミンゴとくいなか。


福岡市動物園  ポッポ号 運転手はシマジロウ(ぬいぐるみ人形)であった。

昔はお猿さんが運転手だったよ。

2007.10.20(土) 福岡空港から宇美八幡宮へ行く

今日の街角風景は、福岡空港に孫を出迎え、その足で宇美八幡宮へ行った

ことである。宇美八幡宮のある福岡県糟屋郡宇美町は福岡空港から東南方向に

7~8km行った所で、三世紀の魏志倭人伝に記されている「不彌国」

(ふみこく)が宇美の地名の起こりではないかととも言われるところだ。


福岡空港第一ターミナル玄関前


福岡空港第一ターミナル玄関前


宇美八幡宮

日本書紀には神功皇后が応神天皇をお産みになったことから「宇美」といわれるように

なったと記されているとのこと。

宇美八幡宮は第十五代応神天皇御降誕の地とされている。祭神は応神天皇をはじめ

神功皇后、玉依姫(たまよりひめ)、住吉大神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が

祀られているという。(応神天皇元年は皇紀930年、西暦270年にあたる)

安産祈願や安産御礼の参拝が多い。


宇美八幡宮


宇美八幡宮衣掛の森(国天然記念物)

神功皇后が応神天皇の産湯の時に産着をかけたといわれている。幹廻り24mの

樟の巨木で樹齢2000年を越えるともいわれている。


宇美八幡宮 衣掛の森(きぬかけのもり)


宇美八幡宮参道

この左後ろに売店があり、子安餅を仕入れて車の中で食べた。子安餅(こやすもち)は

小豆こしあんの焼餅で、太宰府の梅が枝餅と同等だが、あつあつで美味しかった。

ここには子安麩(こやすふ)という大きな麩も売っていたのだが、今は大和麩という

名前になっていた。この麩は煮くずれしにくく、すき焼きにいれるのがいい。

2007.10.19(金) 奥豊後の城下町・竹田に遊ぶ

今日の街角風景は、昨日泊まった湯布院をあとに、奥豊後の城下町・竹田

に遊んだ風景である。


奥豊後の城下町・竹田の岡城址


岡城址

岡藩初代藩主中川秀成は、もと播州三木(兵庫県三木市)の4万石の

領主であった。

文禄3年(1594年)2月、中川秀成は秀吉から岡城の城主に任じられた。

志賀一族が260年にわたり拠点としていた城である。

石高は6万6000石であったが、関が原の戦いの後、7万石になり明治維新を

むかえるまで中川公が奥豊後・竹田の岡城の城主であったと。


岡城址からくじゅう連山を見る


竹田の上町通り  通りの奥が岡城址


竹田の銘菓三笠野と荒城の月をお土産にする


旧 岡藩御用御菓子司、但馬屋   文化元年(1804年)創業とか


但馬屋のすぐ近くにある廉太郎トンネル  

この廉太郎トンネルを通って瀧廉太郎記念館に行く


瀧廉太郎記念館

瀧廉太郎が12歳から14歳まで過ごした居宅の一部を記念館として公開中


瀧廉太郎記念館の前の道壁に埋め込まれた磁器プレート


「味噌、醤油量り売り」の看板がかかる味噌・醤油店

ここで、おしょうゆソフトクリームを食べて福岡への帰路をとった。

2007.10.18(木) 湯布院の湯に浸かり行く

今日の街角風景は、腰の治療には温泉が好かろうと思い立って

湯布院の湯に浸かりに行ったことである。途中、大分自動車道の

山田SAに立ち寄り  菜の花の 遥かに黄なり 筑後川  

という漱石句碑を見、湯布院に入ってからは金鱗湖畔で蕎麦を食い

宇奈岐日女(うなぐひめ)神社を訪ねて湯布院の保養所に落ち着いた。


大分自動車道山田SAの漱石句碑  

   菜の花の 遥かに 黄なり 筑後川   漱石

この句は夏目漱石が明治30年、熊本五高教授時代に久留米の

高良山(こうらさん)に登ったおりに作ったものといわれる。

この句碑のある山田SAは筑後川をはさんで、高良山(こうらさん)のある

耳納山脈と相対した位置にある。ここからは筑後川は見えずまことに残念。


大分自動車道の山田サ-ビスエリア  福岡県朝倉町にある


山田SAから耳納(みのう)山脈を見る


湯布院のシンボル 金鱗湖(きんりんこ)


金鱗湖(きんりんこ)畔の「下ん湯」を見る  ここは岳本地区の共同温泉場だ

この「下ん湯」の向こう側に大分の国府から大宰府に到る官道が通っている。

この岳本地区は万葉時代の官道の重要な宿駅であったといわれている。


蕎麦屋から金鱗湖をみる


昼食は蕎麦だ


宇奈岐日女(うなぐひめ)神社(六所宮)

JR由布院駅の南東約1kmに鎮座まします杉の古木に囲まれた神社

神さびた雰囲気が漂う

平成3年(1991年)の台風19号で杉の古木の大半を失ったという

その時、杉144本をやむなく伐採処理した。その伐採処理された巨木の

一部10株ほどがご神体として境内に祀られている。


宇奈岐日女(うなぐひめ)神社由緒記

創祀は人皇第12代景行天皇の御宇12年冬10月(西暦82年)

嘉祥2年(849年)6月、從五位下に叙されると続日本後記に見えるとか。

延長五年(927年)延喜式の神名帳に列記された式内社である。


宇奈岐日女(うなぐひめ)神社は、湖(みず、うみ)にうかぶ神社である

厳島神社と交流があるであろう。


湯布院の保養所から くじゅう連山を望む


保養所から由布岳(1584m)を望む


由布岳(1584m)

  少女(おとめ)らが 放(はなり)の髪を 木綿(ゆふ)の山

     雲なたなびき  家(いえ)のあたり見む  

                      万葉集巻七・1244 読人不詳

  万葉仮名 : 未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當將見

  大意 : 木綿(ゆふ)の山に雲よたなびかないでくれ。家のあたりが見たいから。

木綿(ゆふ)の山 : 今の由布岳(1584m)。大分県由布市湯布院町の、

             別府市との境の山。豊後国風土記に柚富郷(ゆふのさと)

             に近い故の名で、郷の名は、楮(こうぞ)を多く産し木綿

             (ゆふ)を製するからだとある。

                 以上、日本古典文学大系5(岩波書店)による。

  放(はなり)の髪 : 童女の髪型で、今のおかっぱのことと解するが妥当か。

歌の大意は万葉風土記3(偕成社)猪股静彌文によるものがいいだろう(下記)

  おかっぱの童女が娘になると、髪のうしろの裾を束ねて結います。うしろを結んだ

  髪型を「うない髪」といい、うない髪の娘には恋の申しこみがゆるされるのです。

  歌の三句の「木綿(ゆふ)の山」の木綿は由布であり、髪を「結う」と、かけ詞に

  なっています。五句の「家のあたり見む」というのは、恋びとの家を見たいものだと

  思慕する表現です。序歌で、年ごろの少女の情緒をただよわせ、

    「由布の山よ、雲をたなびかせないでくれ。恋びとの家を見たいから」

  という男歌です。


湯布院の保養所から由布岳を見る


保養所の夕餉

2007.10.4(木) 伊野天照皇大神宮を訪ね、茅乃舎で食事とする

今日の街角風景は、福岡県糟屋郡久山町猪野(カスヤグン ヒサヤママチ イノ)

に九州の伊勢と呼ばれる伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)を訪ね、その奥の

山道を行ったところのレストラン「茅乃舎」(かやのや)での食事である。

伊野神社のある猪野は福岡空港から北東に直線距離で約10kmのところにある。

県道21号線を直方方面に向って、山の神という地点で左折して少し行った所だ。


猪野川(五十鈴川)に架かる五十鈴橋  この右手に伊野天照皇大神宮がある


伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)入口付近  

ここは遠見岳(323m)の麓になる。


伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)

創建は足利時代(1336年~1573年)(室町時代とも)末と伝えられるとか。

西暦1500年頃かと思われる。

戦国の世においても、立花城主・戸次鑑連(べっき あきつら)(通称・立花道雪)

(1513~1585)や名島城主・小早川隆景(1533~1597)等の武将

たちの寄進を受けている。

延宝5年(1677年)黒田家三代藩主・光之(当時50歳という)は、ここ伊野村字別所

に社殿を造営し、太神宮を遷移したと。このとき、本殿から鳥居に至るまで、造営調度

すべて伊勢神宮に模して築造したという。


伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)本殿前の白木の鳥居

筑前國續風土記(宝永六年 1709年 貝原益軒編纂)巻之十八糟屋郡表に

天照太神宮として長文の記述がある。その後半の一部は次のように述べている。

  伊野村は谷ふかく市遠くして、世俗のけがれすくなし。宮所は民家の

  東北高き所にあり。うしろに?山高くそびえ、前に綠水淸くながる。

  陽に向ひ陰に背きて、世に又類すくなき靈地なり。山花紅葉、鹿なき、

  猿さけび、螢多く、魚遊ぶ。是四時の詠なり。遠近よりの參詣の人、

  遊觀の客多し。是に依て茶店酒肆(ちゃみせ、さけみせ)も亦多し。

  ・・・・・

  伊野の下に、山田と云里有。伊勢内宮の前に、山田あれば、此所に

  山田あるも、彼地の名に、自かなへる事奇なりと云つべし。

  ・・・・・

  又太神宮の西に、水取權現の社有。昔は猶其西の山下に在りしが、

  山崩て社にかゝりしかば、此所に移せり。此?は神功皇后の新羅へ

  渡り給ひし時、船中にて水を司どれりと云。罔象女(みずはめ、みずはのめ)

  の水?なるべし。此村の産靈として祭る所也。  


伊野天照皇大神宮(通称 伊野神社)前をレストラン「茅乃舎」(かやのや)へ向う

国宝金印の「漢委奴國王」は、亀井南冥によって「カンノワノナノコクオウ」と

読まれて、定説となっているようだ。

ところが、委奴(ワノナ)國は(イノ、イヌ)國と読むのが妥当である。これは

伊野(イノ、イヌ)國に違いないとする人々もいるようだ。


レストラン「茅乃舎」(かやのや)


「茅乃舎」


「茅乃舎」  メインの十穀鍋


茅乃舎にて

2007.9.11(火) 筑前の小京都・秋月に、だんごあんを訪ねる

今日の街角風景は、筑前の小京都・秋月に、だんごあんを訪ねる。

だんごあんは秋月街道の旧八丁越えのところにある茶屋で川床も

設えられている。


野鳥(のとり)川に架かる眼鏡橋(文化4年、1810年完成)  ここが秋月の入口である

秋月は福岡県甘木市の中心市街地から7kmほど行った山峡の山あいにある。


秋月街道を北上する


秋月街道旧八丁越えの道を約150m歩いて、だんごあんに着く


だんごあん  明治20年の創業とか

渓谷沿いに川床などもある屋外座敷で、おだんごや焼き鳥を食し、ビールを飲む


だんごあんから秋月の町へ下る。


秋月の城下へ入ってきた


約500mの直線道路の両側に約200本の桜が植えられている「杉の馬場」

明治38年頃に日露戦争の戦勝記念として桜が植えられたとか


秋月黒田藩五万石長屋門

元和9年(1623年)黒田長政の三男、長興(ながおき)が秋月黒田藩として五万石

を与えられた。福岡藩の親藩である。


かって秋月千軒と称されるほど賑わった城下町を下る

秋月は全国で唯一、城下町全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているそうだ。


野鳥(のとり)川に架かる眼鏡橋に別れ、甘木市街地へ向かう

明治9年(1876)10月27日福岡・秋月の乱が発生、参加者248名とも。

豊前・豊津藩に同志を求めたがならず、小倉鎮台兵に敗れ引き返すと。


秋月の町は向こうの小高い丘の向こうに拡がっている


大分自動車道甘木インターを入る


大分自動車道を福岡方面へ向かう


九州自動車道太宰府付近  水城が見えてきた


水城だ


九州自動車道太宰府インターを出て福岡都市高速道から西を見る


福岡都市高速道に対向して福岡空港から離陸の旅客機が一機

2007.9.7(金) 秋海棠(しゅうかいどう)

今日の街角風景は、日陰に咲く秋海棠(しゅうかいどう)である。

 秋の季語だそうだ

   秋海棠 西瓜(すいか)の色に 咲きにけり    芭蕉


秋海棠(しゅうかいどう)

貝原益軒の花譜(元禄七年、1709年刊)巻之中の六月の項に次の如くみえる。

 秋海棠 六月中よりさきそめ、秋にいたりて盛也。其花艶なり。尤玩賞すべし。

  此花いにしへ日本になし。正保の頃、はじめてもろこしより長崎へきたる。此

  草木草綱目にのせず。月令廣義遵生八牋等諸書にみえたり。○宿根(ふるね)より

  三四月の頃、苗を生ず。根は芋のごとく小にしてまるし。又子(み)をまくべし。

  年を經れば、莖はなはだ長く、葉大なり。二三年をよしとす。陰地を好む。北の

  屋がけ、かきねによろし。或盆にうふべし。子(み)をうへて糞をかくれば、當年

  に花咲。宿根より生ずるは莖大なり。うふるに毎本相さる事一尺ばかりなるべし。

  ○月令廣義曰、陰處に宜し。遵生八牋曰、一たび日をみれば、色すなはち變ず。



秋海棠   僅かに水引がみえる

2007.8.28(火) 福岡で皆既月食を観る

多くの地域で雲の多い天気となった8月28日、北海道や東北北部、
九州地方などでは、多くの人が皆既月食を観たという。

今日の街角風景は福岡市から観た皆既月食である。

福岡地方の皆既月食は18:52~20:23であったという。


2007.8.28  19:43
南東の空に赤銅色に輝く皆既月食  左上は福岡空港を飛立った旅客機


2007.8.28  20:12
南東の空に皆既月食  下方は福岡空港を飛立った旅客機

皆既月食は太陽からの光によってできた地球の影の中を月が通過する時に見られる
現象だとか。
つまり太陽--地球--月が一直線に並んだ時に見られるものなので、常に月は満月と
いうことになるとのことだ。


2007.8.28  20:31
皆既月食が終了し満月に復帰した月  ムーンダイヤモンドリングとでも言うのだろうか

2007.8.27(月) 福岡市南区より九千部山遠望

福岡、佐賀県境の九千部山(くせんぶやま)(標高848m)は福岡市南区の
南方約13km.にある。今日の街角風景はこの九千部山の遠景である。

幕末、福岡が生んだ歌人、大隈言道(おおくまことみち)は九千部山を

   九千峰(くせんぶ)の 山の夕だち はれにけり

          いかに流るる 谷谷の水

と詠んだ。

大隈言道は寛政十年(1798)福岡薬院抱(かかえ)安学橋(今の今泉・若宮
神社の前あたり)で生れた幕末の歌人である。
慶応四年(1868)7月29日、福岡・今泉の自宅「ささのや」に死去、年71

言道は酒と桜と硯を以って三つの友として生きて来たそうだ。


福岡、佐賀県境の九千部山(くせんぶやま)(標高848m)は福岡市南区の
南方約13km.にある。頂上には佐賀、福岡のテレビ塔が林立する。

筑前國續風土記(貝原益軒、1703年(元禄16年)七十三歳のときに、藩主に献上)
巻之六 那珂郡下の九千部山の項に九千部山の由来として次のように記されている。

  村民の説に、むかし性空上人法華經を一萬部讀誦せんとこゝろざし、九千部よみ、

  其しるしに此山に塔を建てたる故に名付く。


九千部山遠景  福岡空港に着陸せんとして旋回降下中の旅客機が一機

2007.8.17(金) 栴檀葉の菩提樹の実と擬宝珠の花

今日の街角風景は、栴檀葉の菩提樹(センダンバノボダイジュ)の実と
擬宝珠(ギボウシ)の花である。


夏の終わりの暑い日であった。ワシワシヽヽヽヽと大音響を奏でたクマゼミが
終わった10日ほどあとに、何時もは姿を見せないアブラゼミが来ていた。
ジージ、ジージと少数で。


栴檀葉の菩提樹(センダンバノボダイジュ)に房状の実がなっている

モクゲンジ  ムクロジ科  別名栴檀葉の菩提樹(センダンバノボダイジュ)

本州、朝鮮、中国に分布しているという


栴檀葉の菩提樹   邪気を払う木とされる

房の中に黒い種子が入っている  この種子で数珠を作るとか

初夏には黄色い花を穂状に咲かせていた


栴檀葉の菩提樹の黒い種子


擬宝珠(ギボウシ)  玉簪花(ギボウシ)

貝原益軒の花譜(元禄七年 1694年)巻之中の六月の項に次の如くある

  玉簪花(きほうし) 二月に苗を生ず。五月に一莖より、くき十計いづ。

  六月に花さく。人の喉(のど)に魚の骨たちたるを治(ぢす)。牙(は)

  に著べからず、牙をつる也。毒草也。又一種、さぎ草という物あり。

  玉簪花の別種也。是もきほうしと云。○名花譜曰、玉簪花日かげを好む。

  陰地にうふべし。花ひらくとき、清水をそゝぐべし。

夏の季語とか

    絶壁に 擬宝珠咲きむれ 岩襖(いわぶすま)   久女

杉田久女:明治23年鹿児島市生まれ。本名赤堀ひさ。明治44年、愛知県

     の現豊田市出身で旧制小倉中学の美術教師で画家の杉田宇内と結婚し

     福岡県小倉市に住む。

     「ホトトギス」同人であったが、後に除名された。

     昭和21年福岡県筑紫郡太宰府町で死去、享年57  という。


擬宝珠(ギボウシ)  玉簪花(ギボウシ)

2007.8.8(水) 街角風景:福岡天神:二水会(福岡同期会)

二水会(福岡同期会)が天神であった。何時ものように、西鉄福岡天神駅に降り立ち
天神界隈の街角風景を撮りながら、会場の益正天神店を訪ねた。


電車が終点の西鉄福岡天神駅に入線してきた。最後尾車輌から今通ってきた線路を見る


いま乗ってきた電車が折り返しの発車待ちである


西鉄福岡天神駅プラットホームから改札出口を見る


西鉄福岡天神駅コンコース下のアクセサリーショップで


西鉄福岡天神駅が入っているターミナルビルを見上げる


ターミナルビルの全景


左が天神イムズビル、正面に福岡市役所


福岡市役所   窓は緑のつる草で覆われている  省エネ&エコ対策だろう


中央にエルガーラ   右に西日本新聞会館


福ビル裏通りの書店 二階の窓側は販売図書がチェックできるカウンター席がある


明治通りである   会場の益正天神店はすぐそこだ


益正天神店にて


西中洲の「すくーる」にて

2007.8.5(日) 福岡空港第一ターミナル

今日の街角風景は、孫を福岡空港第一ターミナルに見送った時のものである。


福岡空港第一ターミナルビル


福岡空港第一ターミナルビルから第一ターミナル駐車場あたりを見る


福岡空港第一ターミナルビルから第一ターミナル駐車場越しに東平尾公園方向を見る


福岡空港第一ターミナルビルから第二ターミナルビルを見る


福岡空港第一ターミナル1階フロア


福岡空港第一ターミナル2階フロア土産品売り場付近


福岡空港第一ターミナル2階フロア出発ゲート

2007.8.4(土) 福岡都市高速の荒津大橋を通り、大博通りに出る

家内の叔父の四十九日法要に参列した後、百道ランプから福岡都市高速に
入り、荒津大橋を通って呉服町ランプで降り、大博通りから対馬小路を通って
帰路についた。
今日の街角風景は、博多のその道筋の風景である。


右手に西公園の森を見ながら、荒津大橋に向かう


福岡都市高速の荒津大橋  この右下に遣唐使船も出た福岡船溜りがある


左前方が対馬航路、五島航路、釜山航路などのターミナルがある博多埠頭


福岡都市高速の呉服町ランプを出て、昭和通りと大博通りが交わる蔵本交差点に
さしかかった。これを右折して大博通りにでる。
前方に見えるうなぎ屋の蒸籠蒸しは絶品だ。


大博通りを北上する。


大博通りを行く  右側中央が先祖が高名な蘭法医であったという原三信病院
この突き当りが大相撲九州場所が開かれる福岡国際センターであり、少し左に
行けば博多埠頭である。


対馬小路の承天まんじゅうのお店まえで

2007.8.1(水) 福岡天神で:長崎勤務経験者会社同窓会(ばってん会)総会

長崎勤務経験者の会社同窓会(ばってん会)総会が福岡天神の
中華料理店・平和楼本店で開かれた。会員総数95名のうち、
39名の方々が参加してくれて、和やかに歓談に興じた。

今日の街角風景は、会場となった平和楼本店の天神周辺である。


サルスベリの花が満開であった


天神のきらめき通り中央交差点  左右の建物は岩田屋百貨店
平和楼本店は、このすぐ右側にある




今日は大濠花火大会の日だ   平和楼本店は、この左にある


会場の平和楼本店


2007年度ばってん会総会  平和楼本店にて


天神のきらめき通り中央交差点から西鉄福岡駅方面を望む


西鉄ソラリアホテル17F  トランスブルー


帰路、車窓から渡辺通り1丁目のホテル・ニューオータニを見る

2007.7.22(日) カサブランカ、風蘭、下野(シモツケ)の花咲く

今日の街角風景は、いま咲いているカサブランカ、風蘭、下野(シモツケ)
の花である


オリエンタル ハイブリッド リリーの代表種 カサブランカ

日本原産の山百合、鹿の子ゆり、笹ゆりなどを中心に交配、開発された
百合の園芸品種で、オリエンタル ハイブリッドといわれる。
オリエンタル ハイブリッドは19世紀以降、主としてオランダで開発
されてきたそうだが、カサブランカの開発は1980年代ともいわれる。

カサブランカの名前は北アフリカのモロッコの最大の都市「カサブランカ」
に由来するという。

戦火近づく1940年、仏領モロッコの都、カサブランカは自由を求めて
アメリカへの亡命を図る人々で溢れていた。
映画「カサブランカ」は、このカサブランカを舞台に繰りひろげられる、
イングリッド・バーグマン、ハンフリー・ボガード主演のいい映画だ。

映画「カサブランカ」が製作された1942年度には、カサブランカの花
は、まだこの世に無かったことになる。


カサブランカ   中に黒く見えるのは蜜を吸うコガネムシ


風蘭

  夏の季語とか

    風蘭の 花垂るる簷(のき)や 遠雷す    風生

貝原益軒の花譜(宝永元年 1704年発行)巻之中の六月に次のように
記されている

風蘭  諸・確類書曰、桂蘭、一名は風蘭。土なくして生ず。小かごに入、

樹上にかけをく。仙草と稱す。細花微香ありといへり。又五雜俎遵生八牋

にいづ。山中岩のかたはらに生ず。是をとって。棕櫚(しゆろ)の毛にて

からげ、樹下成檐下にかけ、ときどき水を澆べし。水中に浸して。またかくる

もよし。或曰、冷茶をそそげばしげる。奇種なり。其花黄白にして、蘭に似たり。

花史曰、露ありて日なき所にかけおき、朝夕水をそそぐべし。福州府志曰、風蘭

は高樹に寄生す。其根は土につかず。難産する者、これを懸れば、産しやすし。


シモツケ(下野)  

バラ科の落葉低木。 山野に生え、高さ1m内外で、茎は群がって立つ。
北海道、本州、四国、九州、朝鮮、中国に分布し、観賞用や生け花用に
栽培される。写真のものは雲仙生まれ。

名は最初の発見地といわれる下野(しもつけ)(栃木県)の地名に因むとか。

  夏に季語とか

    しもつけを 地に並べけり 植木売    青々

  青々・・松瀬青々  明治二年大阪大川町(現中央区北浜4丁目)生まれ
            関西に「主観俳句」の俳壇を築いた大阪俳壇の重鎮
            一方、関西ホトトギス派の指導者ともいわれる


サルスベリ

2007.7.19(木) 博多駅筑紫口の街角風景:高校同級生と久し振りに歓談

腰を痛めて通常の歩行が苦しく、高校同級生との花見、サッカーJ2応援、
ゴルフなどの会合を欠席し続けてきた。博多駅で一杯どうかという話で、
博多駅筑紫口に出かけ、久し振りに歓談した。

今日の街角風景は、西鉄井尻駅から筑紫通りを通って博多駅筑紫口に至る
西鉄バス路線の車窓とJR博多駅筑紫口である。


西鉄井尻駅の踏み切りで


西鉄井尻駅の踏み切りで


西鉄バス停「池の上」  そばに諸岡池と親水公園


諸岡3丁目交差点を左折して筑紫通りに入る


山王公園前交差点を北上する


前方の交差点を右折すれば博多駅筑紫口だ


バスを降りて博多駅筑紫口を見る  正面がJR博多駅筑紫口
右側に黄色地にPのマークの垂れ幕がかかるのが、今春4月に開業した
JR九州筑紫口ビルで通称「エキサイド博多」  2,3階の一部と
4階から10階までがパーキングビルとなっている。


博多駅筑紫口の右側(西側)


博多駅筑紫口の正面(南側)


博多駅筑紫口の左側(東側)


博多駅筑紫口地下1階 八仙閣博多駅店にて


「エキサイド博多」2階 博多味処「ちくし」

2007.7.11(水) 天神の街角風景:福岡同期二水会

福岡同期二水会はいつものように益正天神店で行われた。
二次会もいつもの西中洲の「すくーる」、三次会は中州の
クラブだった。D君からスベンスカヤの美味しいドイツパンを
土産にもらって帰途についた。

今日の街角風景は西鉄福岡駅の定点観測とその周辺風景である。


西鉄福岡駅のプラットホーム


西鉄福岡駅のプラットホームを改札口へ向かう


西鉄福岡駅改札口を出て振り返って、改札口を見る


西鉄福岡駅からエスカレーターで一階に下りる  天神だ


新天町商店街  山笠セール開催中


博多祇園山笠の飾り山  十三番山笠 新天町  龍虎合討川中島 


博多祇園山笠の飾り山  十三番山笠 新天町  ゲゲゲの鬼太郎

2007.6.23(土) 博多・対馬小路に承天まんじゅうを求める

今日の街角風景は、義父の墓参りのあとに博多区の対馬小路
(つましょうじ)にある和菓子店で、承天(じょうてん)まんじゅう
という饅頭を求めたことである。

承天(じょうてん)まんじゅうは非常にちっちゃな饅頭だが、
めっぽう美味い。日本で最初に饅頭を伝えた博多の寺の名を
冠するまんじゅうである。


博多区の対馬小路にある、承天(じょうてん)まんじゅうのお店


店の入口


承天まんじゅうの看板のかかる店

博多の名刹、承天(じょうてん)寺の開祖、聖一国師が、博多の町を毎日
托鉢して歩いていた時に、親切にしてくれた茶店の主人、栗波吉左右衛門
に、中国で習ったまんじゅうの製法を教えたと。
即ち承天寺は日本の饅頭の発祥の地であると。
承天寺の名前を持つまんじゅうが、このお店で作られておると。

聖一国師は駿河の国の出身で、嘉禎(かてい)元年(1235年)中国に
渡り、6年の修行を経て中国で習った饅頭を承天寺に伝えたと。


店内の様子

2007.6.20(水) スモモの実が色づく頃

今日の街角風景は、スモモの実が色づく頃のスモモとデュランタ宝塚、

ノウゼンカズラ、紫陽花、栴檀葉の菩提樹の花である。


スモモ(李、酸桃)  これはプルーンと称される西洋スモモか


スモモ(李、酸桃)

  花は春、実は夏の季語とか

    葉がくれの 赤い李(すもも)に なく小犬    一茶


花瓶に挿したスモモ


スモモの実  少し早くて酸味が強いがなかなか良い味だ


デュランタ宝塚   中南米原産とか   常緑小高木
小さな紫色の白覆輪の花を房状に咲かせる


デュランタ宝塚


デュランタ宝塚


ノウゼンカズラ  

中国原産、花やつぼみの汁は有毒である。庭木として植栽されている。  


ノウゼンカズラ


紫陽花(あじさい)

  夏の季語とか

    紫陽花や 藪を小庭の 別座敷    芭蕉


先端部に穂状に黄色の花を咲かせているのが栴檀葉の菩提樹
(せんだんばのぼだいじゅ)


栴檀葉の菩提樹の花

2007.6.19(火) 長崎勤務経験会社同窓会(ばってん会)幹事会

今日の街角風景は、長崎勤務経験者の会社同窓会(ばってん会)
の幹事会が行われた、いつもの天神界隈である。


西鉄福岡天神駅  新車だ


昭和通り交差点から天神ビルをみる


昭和通りを渡ると福岡中央郵便局だ


福岡中央郵便局前から振り返って天神ビルをみる


福岡中央郵便局と日銀福岡支店の間の道を北に行く  僅かに見える
左側のビルは天神ビル新館


夕日を浴びる天神クリスタルビル


とあるビルの地下1階にある居酒屋「たいむず」


今泉の「夏」


"夏”で


"夏”で


"夏”で

2007.6.16(土) ねむの花咲く

今日の街角風景は、いま咲いている、ねむのき(合歓、夜合樹)
などである。


ネムノキ(合歓、夜合樹) マメ科の落葉高木  別名コウカ、ネブノキ

「合歓の花」が夏の季語とか。

  雨の日や まだきにくれて ねむの花   蕪村

    「まだきにくれて」とは・・早くから暗くなって・・の意だろう


合歓(ねむのき)

貝原益軒の「花譜」(元禄7年(1694年)発行)巻之中、五月の項に
次のように載せられている

合歡(ねふのき) 博物誌に、此木を庭にうゆれば、人のいかりを除、

嵆康(けいかう)はこれを舍前(いゑのまえ)にうえしよし、みえたり。

また嵆康(けいかう)の養生論、崔豹が古今註にも、此樹人の怒をのぞく

よしといへり。故にもろこしには、人家多く庭に植。其葉暮にいたれはとづ。

故に夜合と云。ねふりの木と云も。此故なるべし。五月に花ひらきて、紅白也。

上にいとすぢのごとくなる物あり。葉のわかきときは、ゆびきてくふべし。

五臟をやすんじ、心志をやわらげ、よろこびたのしんで、憂なからしむるよし、

神農本草にみえたり。又葉をせんじて、衣(ころも)の垢(あか)をあらふと、

陳藏器はいへり。


ランタナ


ランタナ


紫陽花の前に、セージの赤い花穂  何れも花の盛りは過ぎたようだ

2007.6.9(土) 中学卒業50周年記念同窓会に長崎へ行く

今日の街角風景は、出身中学の卒業50周年記念同窓会に出席するため
長崎に行ったときの情景だ。

中学卒業50周年記念同窓会はJR長崎駅に程近い「サンプリエール」
であった。昔の8ミリフィルムで撮った懐かしい映像も映し出され、
宴会場にどよめきがおこった。50年前の中学時代の歳月は思い出と共に
今よみがえり、歓談に興じた。


中学卒業50周年記念同窓会記念写真



皆いい顔してる


お開きも近い


二次会は長崎駅前の「SADAZUMI」に集まった


二次会のひとこま


二次会のひとこま


次の日、JR長崎駅に隣接する「アミュプラザ長崎」に出向いた。
そこから見る、旧長崎漁港の跡地である。ようやく再開発が動き出したらしい。


今日の晩飯はここの茶碗蒸しセットとする(アミュプラザで)


懐かしのぶたまんも仕入れた(アミュプラザで)


お土産はカステラ(アミュプラザで)


長崎駅前からの風景  正面右のクリーム色のビルが昨日二次会を開いた
「SADAZUMI」

  あはれあはれ ここは肥前の 長崎か

    唐寺の甍(いらか)に ふる寒き雨   斉藤茂吉「あらたま」所収

斉藤茂吉は大正六年十二月十八日、午後五時五分に長崎駅に降りたったといわれて
いる。茂吉三十六歳の冬である。
丁度この長崎駅前からの風景は、当時、前面の低い山の中腹に、福済禅寺や聖福寺
が見えていたに違いない。

2007.6.8(金) 海紅豆(かいこうず)の花咲く

今日の街角風景は、海紅豆(かいこうず)の花咲く模様である。
海紅豆(かいこうず)はアメリカデイコとも呼ばれ、ブラジル
原産で、鹿児島県の県木であるとか・・・。


満開の一本の海紅豆(かいこうず)を斜め上方より写す


花咲く海紅豆(かいこうず)のズームアップ


同じくズームアップ


海紅豆(かいこうず)(アメリカデイコ)の花


二種類の紫陽花  中央の若木は栴檀葉の菩提樹(せんだんばのぼだいじゅ)
というらしい

2007.5.20(日)、21(月) 神戸ハーバーランド・キャナルガーデンで憩う

今日の街角風景は、宿泊したJR神戸駅傍のニューオータニ神戸ハーバーランド
の部屋からの眺めと、その隣にある神戸ハーバーランド・キャナルガーデンの
ベンチで憩った時のストリート風景である。


神戸ハーバーランド・キャナルガーデンの対面の道路、神戸ガス燈通りから
キャナルガーデンを見る


横断歩道を渡ってキャナルガーデンに近づく


赤いモニュメントは星の灯台と称するもので、キャナルガーデンの入口だ。
三角錐の先端につけられた、赤い羽根が風を受けて回転する高さ7mの動く
オブジェで、夜にはライトアップされ幻想的に浮かび上がるるという。


キャナルガーデンを入ったところにあるモナリザ?の目が異様に光る


キャナルガーデン入口付近のディンドンというからくり音色時計?
ジョージ・ローズ作とかで、ボールの永久的な動きと、ボールが奏でる音が
美しい人気のモニュメントだという。


キャナルガーデン ストリートから左に「ハレ」商店街、右に神戸阪急を見る


神戸阪急の吹き抜け


1階から6階まで高さ36メートルにおよぶ巨大な吹き抜けは、豪華客船を
イメージしたという


ヘルシーなアジアンスイーツを売る店  ベトナムの冷たいかき氷(チェー)や
緑豆団子しるこなど多種類あり  ディスプレーはどれも美味しそう


天井は満天の星のイメージか


ホテルの居室から北方にJR神戸駅を見る


JR神戸駅の向こうの緑の杜は楠木正成を祀る湊川神社


JR神戸駅を海側から望む。JR神戸駅浜の手口というのだろうか。
JR神戸駅は1874年(明治7年)国内2番目となる大阪~神戸間の
開通に伴い設けられたものという。


ホテルの居室から眼下に上り線大渋滞中の阪神高速道を見る


中山手通りを新幹線新神戸駅へ向かう


中山手通りを行き、これから左折し北野へと進路をとる


北野へと坂を上る


風見鶏の館をちょっと見る


北野異人館街を行く


新幹線新神戸駅へ入ってきた


布引ハーブ園に行く新神戸ロープウェーが見える


JR新幹線新神戸駅プラットホームから新神戸駅前をみる


JR新幹線新神戸駅プラットホームから、右手に見える駅前風景


のぞみ号を待つ新神戸駅プラットホームで、HT球団の選手がファンのサインに
応じている。(能見投手か)

ファンは列車を見送ると改札の方へ帰っていった。
明日はSBと福岡で交流戦が予定されているようだ。


ひかりレールスターが入ってきた。博多までの所要時間は2時間31分だ。
駅の売店ですきやき弁当を手に入れ、今晩の夕食とするつもりだ。

2007.5.19(土) 神戸へ行く・兵庫駅は今・・・

今日の街角風景は、息子の引越しの手伝いに神戸に行く道筋とJR神戸線兵庫駅の
今である。
ところで、神戸に着いてから腰痛と両足の付け根のしびれがひどく、約30メートル
ごとの跛行を繰り返すのみで、とても引越し手伝いどころではなかった。福岡に帰って
から医院で診てもらったら脊柱管狭窄症ということで、残念ではあるが仕方が無い。
投薬と物理療法だけで、日常生活に支障の無いところまでもっていき、維持できれば
なあ・・・と思うことしきり・・・。


この、8:45博多発ひかりレールスターで新神戸へ行く
所要時間2時間22分


博多駅にはこだま型車輌が入線中   試験車輌か


福山駅のプラットホーム越しに福山城を望む


ウイーン少年合唱団か!


岡山駅からウイーン少年合唱団の一行が乗車してきた


神戸市中央区中山手通り4丁目を行く


神戸市中央区の大倉山から湊川神社脇の坂を下る  街路樹は勿論、楠だ


楠木正成を祀る湊川神社


多聞通りを新開地方面へ向かう


正面がJR兵庫駅南口


兵庫駅南口に向かって左側を望む


兵庫駅南口に向かって右側を望む  右端は神戸市立兵庫図書館が2階に入る


兵庫駅南口広場から海側を見る  少し先に阪神高速が横切っている


自転車置き場とJR神戸線兵庫駅の高架プラットホームの間の中二階が
JR和田岬線の兵庫駅だ。右端に見えるグレーの箱状のものは線路止めの
ショックアブソーバーだろう。

JR和田岬線は兵庫駅から和田岬駅までの一区間ではあるが勿論現役だ。
昭和40年の4月から6月まで毎日この線で通勤したことを思い出す。


JR兵庫駅の改札口   左奥の小さい階段を上るとJR和田岬線の改札だろう


戦前の雰囲気を色濃く残す、JR兵庫駅のコンコース


JR兵庫駅北口  兵庫駅の正面玄関だ


JR兵庫駅北口車寄せ付近


JR兵庫駅北口前にある、とんかつやで夕食をとる


JR兵庫駅北口構内通路


JR兵庫駅北口を西方向へ出る


JR兵庫駅北口から山陽本線、神戸線を見る


駅近くで見た何やら懐かしい路地裏

2007.4.20(金) 早良区石釜を通って、佐賀県三瀬(みつせ)村で昼食をとる

今日の街角風景は、福岡市西部の早良区から国道263号線を南下し
石釜地区から三瀬トンネルを通って脊振山系を越え、佐賀県三瀬村に
はいって昼食をとる迄とする。


福岡市早良区石釜は脊振山系の麓に位置し、山里風景が拡がる


石釜地区は「石釜豆腐」が有名だ。天神あたりの居酒屋では、この地区の
「ざる豆腐」を肴によく飲んだものだ。


三瀬トンネルを過ぎ更に、佐賀県三瀬村の中心地をも少し通り過ぎたところ


昼食をとった蕎麦屋さんからの風景


今日の昼食   ざるそばと親子丼の定食


牡丹


牡丹


牡丹

元禄7年(1694)に刊行された貝原益軒の「花譜」巻之中 三月の項に

 牡丹  もろこしにて花王と稱す。花の尤富貴なる物なり。張元素曰、

     牡丹は乃(すなはち)天地之精。爲群花之首。篤信案ずるに。

     此花?農本草に載(のせ)たり。上代よりありて、唐の世より

     盛に賞し、世人こぞってこれを玩(もてあそぶ)。・・・・・

からはじまる長文の記載がある。

2011/09/27

2007.4.9(月) 雑餉隈(ざっしょのくま)の市場にて

今日の街角風景は西鉄雑餉隈駅に隣接する福岡市博多区雑餉隈の
銀天町アーケード商店街の脇の、生鮮食料品店が軒を連ねる通り
である。


生鮮食料品が兎に角安くて品がいい。かってこの通りを毎日歩いたものだ。
この通りには近郊からの出店も出ている。


今はスーパーとなったが、かっては多数の商店が入った食品市場であった。
このスーパーの中にも魚屋さん、八百屋さん、お惣菜屋さんなどの個人商店が
入っている。


魚屋さん


スーパーからこのマンションまでは30メートル位の至近距離である。

かってこのマンションの10階の一室に住んだことがある。
手前の紅色の新芽をふいている木は香椿(チャンチン)である。
このマンションには博多区図書館、ホール、会議室、デイケアセンター、
体育館、スポーツジムが併設されており、図書館とジムはよく利用した。


アネモネ   万有百科大事典(小学館)に次の句が載る

  アネモネの 鮮(あざ)やかなりし 日は暮れぬ   晴江


ナニワイバラか?


アメリカハナミズキ(アメリカヤマボウシともいう)

2007.4.1(日) 八木山峠に桜花を見つつ 旧長崎街道の飯塚宿を訪ねる

今日の街角風景は、福岡の北東約30kmにある筑豊の中心である
飯塚まで、国道201号線を通って、桜が満開であろう八木山越え
の風景と、旧長崎街道の飯塚宿の問屋場跡と森鷗外文学碑である。


国道201号線が篠栗(ささぐり)町に入る。筑前の国篠栗八十八ヵ所
霊場の中を車は進んでいく。


八木山越えの七曲りのあたりである。谷の周辺にはお遍路さんの遍路道
があり、新吉野公園というらしい。秋は紅葉も綺麗だとか。


篠栗四国第三十四番霊場 紅葉ヶ滝宝山寺前で

  さまざまの こと思ひ出す 桜かな   芭蕉


篠栗から八木山峠を越えた飯塚よりの八木山展望公園   満開の花は染井吉野


飯塚アーケイド街に建つ、「史跡 飯塚宿問屋場跡」の碑


左端に黒く柱状に見えるのが「史跡 飯塚宿問屋場跡」の碑

前方に続くアーケイド街の道そのものが旧長崎街道であり、内野宿へ通じている。

「史跡 飯塚宿問屋場跡」の碑文には

 継ぎ所ともいい、木屋瀬(こやのせ)と内野までの人足・馬・貨物の引き継ぎを
 おこないました。
 馬立場(うまたてば)といって、常備馬や宿駅・助郷制度によって、飯塚宿や嘉麻・
 穂波両郡から臨時にかりだされた人馬も集まっていました。

                 昭和四十六年十一月三日 飯塚文化連合会建之
 とある。


森乗ス外文学碑 碑文に曰く

    明治三十四年七月、小倉第十二師団

    軍医部長として、衛生隊演習のため

    飯塚逗留を記念して建立する

    五日。雨。・・・・夕に飯塚呉服店

    島田氏の裏座敷に舎る

    夜楠瀬少将、諸演習員、嘉穂部長、

    飯塚警部長及飯塚町長を招きて立食

    を饗す。

    六日。雨。・・・・飯塚に淹留す。・・・

    七日。日曜日陰。飯塚を發し、

    上三緒に至りて演習す。

             森乗ス外「小倉日記」より
    

旧長崎街道飯塚宿のアーケイド街に建つ森乗ス外文学碑 


帰路、飯塚と福岡を最短距離で結ぶ、県道60号線の福岡雑餉隈の春町街路公園
付近を通る。雨が降ったらしい。


花梨(かりん)の花


エイザンスミレ

  山路来て 何やらゆかし すみれ草(ぐさ)   芭蕉


エイザンスミレ、桜草、ムシトリナデシコなど


ツボスミレ

2007.3.23(金) 花々咲く

今日の街角風景は福岡の今に咲く花々としたい。貝原益軒の著書
「花譜」(元禄7年、1694年発行)に記載があるものは、その
記述文章も紹介したい。


手前の桃色の花が桜桃(ゆすら)、黄色いのが連翹(れんぎょう)、その奥が
四手辛夷(しでこぶし)(ヒメコブシともいう)である。右側に暗くわずかに
見える木は花梨(かりん)である。


桜桃(ゆすら)  貝原益軒の著書「花譜」中巻 二月の項に曰く

 桜桃(ゆすら) 順和名抄には、にはさくらと訓ず。本草曰、始て生ずるとき。

    榛(はしばみ)の葉に似たり。二月に、白花をひらく。花多して、雪のごとし。

    其實百果にさきだちて熟す。食ふべし。色あかし。四月に熟す。毒なしといへり。

    花も實も、すこぶる賞すべし。唐には、其實の大さ彈子のごとくなるありといへ

    り。日あてよき所にうふれば、さかへやすし。名花譜曰、春の中、節ある樹をお

    りて、肥土にさせばつく。又實をまくべし。はやく長じて、花さき實のる。


連翹(れんげう) 貝原益軒の著書「花譜」中巻 二月の項に曰く

 連翹(れんげう)二月に、黄花をひらく。花ちりて後葉生ず。其莖(くき)ほそながく
 
    して、かづらのごとく、一本よりくき多(おほ)く生ず。くきよはくして、獨り

    立ことあたはず。樹にすがりてたてり。又竹木をたててゆひ付てよし。秋實を

    むすぶ。藥に用ゆる連翹これなり。又一種、くきのつよきあり。是は物にすが

    らずして、ひとりたてり。


ヒメコブシ(姫辛夷花)  シデコブシ(四手辛夷)ともいう

万有百科大事典(小学館)によれば

花はコブシ(拳)によく似ているが、がくと花弁の区別がない。12~18個の白い
花弁を神事に用いる四手に見たててこの名がある。とのこと。

広辞苑によれば

しで[垂・四手];神前に供する玉串、注連縄などに垂れ下げるもの

とある。



花梨(かりん)の花


花梨(かりん)の木の根元に黄色の冬知らずの草花が咲く。左端にやぶ椿


冬知らずの花


やぶ椿


バビリアス(西洋カタバミ)

2011/09/26

2007.3.20(火) カトリック黒崎教会を訪ね、平戸へと足を延ばす

今日の街角風景は長崎から西彼杵半島西岸を北上し、角力灘に面した
カトリック黒崎教会を訪ね、平戸へと足を延ばしてオランダ商館の栄華
の跡をみる。
カトリック黒崎教会の所在地は長崎県西彼杵郡外海町上黒崎郷26で
あったが、平成17年1月4日に長崎市と合併し、長崎市上黒崎町26
となった。遠藤周作の「沈黙」の舞台となったところである。


マリア像の台座に黒御影石に金文字で刻んだ碑にカトリック黒崎教会の
歩みとして

1571(元亀2)年1月下旬頃、カブラル神父らが初めて外海地方を
布教し、各地に15の教会が出来た。厳しい弾圧の中で日本人伝道士バスチャン、
治兵衛神父らの指導により、信仰を守り、子孫に伝えた。

1865(慶応元)年信徒発見後、1867(慶応3)年クーザン神父が訪れ、
辻村三次郎宅でミサが捧げられる。ここは信徒の集会所でもあった。

と淡々と書かれている。

1899(明治32)年9月30日聖堂建設に着手。資金難のために一時中断。

1920(大正9)年12月18日計画以来23年、子供まで煉瓦運びに奉仕
するなどの苦労の末、ロマネスク様式赤煉瓦造りの現聖堂が竣工。

1989(平成1)年7月~90年5月に聖堂と石垣の改修。

1997(平成9)年3月、計画以来10年の大改修が終わり、先人の足あと
をここに記し、改修記念としてこの碑を建てる。

  A.D.2000大聖年(平成12年)カトリック黒崎教会


三廊式コウモリ天井と柱が美しくもやわらかく、且つ厳かである


黒崎教会のある外海(そとめ)地方は角力灘の向こうの五島列島に多くの移住者を
出し、長崎カトリック信徒の母郷ともよばれているそうだ。

なお、この聖堂の棟梁として一統を率いたのは川原忠藏といわれている。幕末の
旧大浦天主堂の創建に大工として参加した川原久米吉(1818~1903)の息子である
という。忠藏の息子の片山伝次郎もこの聖堂の建築に参加したという。

1899(明治32)年に岩永神父のもと、黒崎教会の建設に着手したが、資金難で
中断、工事再開は実に1918(大正7)年で、2年後に完成した。

私は40年程前に、ここを訪れたことがある。教会の黒板に、法事の件・・・、
お布施は・・・、香典返しの件・・・と書かれてあったことが思い出される。
今はない。


平戸港の向こうに1707年(宝永4年)竣工の亀岡城(平戸城)と1977(昭和52)
年4月4日開通の平戸島と本土を結ぶ平戸大橋を見る


先ずは腹ごしらえにと、ひらめ尽くし定食をとる。美味しいが酒がないのが残念


食事をとったすぐ傍のポルトガル船入港之地 すぐ向こうに平戸港

1550(天文19)年 ポルトガルの貿易船が初めて平戸に入港
            同年9月にフランシスコ・ザビエルが平戸に来島し布教
 
1584(天正12)年 スペインの貿易船が入港

1609(慶長14)年 オランダが商館を設置

1613(慶長18)年 イギリスが商館を設置

1623(元和9)年  イギリスとの通商断絶(商館閉鎖)

1624(寛永元)年  スペインとの通商断絶

  
平戸市浦之町にある創業四百六拾年という葡傅銘菓カスドースの老舗


城下雛まつりの期間とかで、店内は雛人形が飾られていた。餅花がきれいだ


店内の様子  お土産は勿論葡傅銘菓カスドース

平戸にポルトガルの黒船が来航した1550(天文19)年以来、平戸は
日本唯一の西欧文化の導入口であった。その時、ポルトガル船で渡来した
神父達によってカステーラと共にカスドースの製法も伝えられたと。


寺院と教会の見える風景  教会は1931年(昭和6年)に建設された
聖フランシスコ・ザビエル記念教会


松浦資料博物館  この地は鎌倉時代初頭平戸松浦氏発祥の地であり、南朝の忠臣
松浦鬼八郎定はここより起こったと。また日本最初の蘭英貿易を平戸に独占した
松浦氏邸跡であり、蘭英商館長やウイリアム・アダムス(三浦按針)等も出入した所という。


御部屋(おへや)の坂   写真左下に休み石がある

この付近、旧平戸藩主邸(現松浦資料博物館)一帯は御館(おたち)といい、
鎌倉時代に平戸松浦氏が居城を構え現在に至っている。
石段が続く坂道は、中程に御部屋様(側室)の屋敷があったので「御部屋の坂」
と呼ばれ、周辺に建ち並んでいたといわれる。
写真右手上方に見えるのは御部屋様(側室)の屋敷の門と白い土塀が
おおよその形で復元されているのだろう。中は日本庭園となっている。


平戸和蘭商館跡  後ろの山手にジャガタラ文で有名な平戸観光資料館が見える

1609年(慶長14年)、2隻のオランダ船が平戸に来航して、時の領主
松浦鎮信(法印)の斡旋によって、家康、ついで秀忠に謁見したオランダ使節は、
商館の設置と貿易の許可を得、平戸オランダ商館が設置された。
平戸オランダ商館の貿易額、取引額は1630年代後半から飛躍的に増大する。
後の長崎出島時代を含めても、貿易額が最高潮二達するのは平戸時代後期の
ことである。
しかし、次第に進展する鎖国政策の波には抗し得ず、1639年(寛永16年)
築造倉庫は破風にキリスト生誕を紀元とする西暦年号が記されていることを理由に
破壊を命じられる。
また、平戸オランダ商館自体も1641年(寛永18年)長崎出島への移転を命じられ
平戸オランダ商館の歴史は幕を下ろす。


オランダ塀  漆喰で固められた、頑丈極まる塀である。


銅版画に残る平戸オランダ商館の姿  案内板に転写されている


まだまだ平戸オランダ商館跡の発掘調査は続いている


平戸オランダ商館跡の高台から平戸港、平戸城、平戸大橋を望む

1635年(寛永12年)日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面禁止

1636年(寛永13年)長崎に出島完成  ポルトガル人を入れた

1637年(寛永14年)島原の乱勃発  幕府はこれをキリシタンの反乱と認定   

1639年(寛永16年)出島のポルトガル人を追放
            以後、ポルトガルとの交渉を厳禁
            この結果、対外貿易はオランダと中国だけに限定し、
            鎖国体制の完成となる

1741年(寛保元年) 空地となった出島に平戸からオランダ商館を移設
            これで平戸での南蛮貿易が終焉となる

1871年(明治4年) 廃藩置県により平戸藩が廃され、平戸県となる
            さらに長崎県へ併合される

1889年(明治22年)4月1日 町村制度施行により北松浦郡平戸町、平戸村、
            田平村、生月村、大島村など1町11村が発足

2005年(平成17年)10月1日 平戸市は周辺の大島村、生月町、田平町と
            対等合併し、新市名を平戸市とした

            この結果、長崎県から村が消滅した。     

2007.3.19(月) 長崎県美術館にベルギー王立美術館展を観る

義妹と姪が来福したので、彼女らと一緒に長崎旅行をした。
今日の街角風景は、長崎市に長崎県美術館と長崎歴史文化
博物館を訪ねたときの風景である。


長崎の出島一帯は出島岸壁とその倉庫群を取り払い、長崎水辺の森公園
となって風景を一変させている。その一角にあるレストランで昼食をとる。
レストランの奥に僅かに見える赤い屋根は懐かしい活水女学院である。


平成17年4月にオープンした長崎県美術館をレストランから続く裏口
から見る。長崎水辺の森公園の一角にあり、運河をはさんで建っている。


長崎県美術館のベルギー王立美術館展の入口  窓の向こうは長崎港


ピーテル・ブリューゲル[父]?「イカロスの墜落」16世紀中頃 
73.5cm?112cm  油彩/カンバス  
ブリュッセルのベルギー王立美術館所蔵

ベルギー王立美術館は1801年ナポレオン・ボナパルトによって建設の
政令が発布された巨大美術館であるという。

ピーテル・ブリューゲル[父]?は16世紀のフランドル地方を代表する画家。
フランドル絵画は近代油彩画の原点を創ったと高く評価されているようだ。
ブリューゲルはオランダのブレダ近郊ブリューゲル村に生れたといわれ、
ベルギーのブリュッセルで亡くなったといわれているそうだ。
馴染み深い呼称は「百姓ブリューゲル」か。通称「農民画家」


美術館から港越しに、22年間を過ごした長崎製作所を見る。


遠くに小さく見えるのが岩屋山(いわやさん)  あの山の麓に
生れて、36年間住んだ私のふるさとが眼前にある。


長崎の上町の坂を上る。正面奥を左に曲がれば長崎歴史文化博物館
右手の建物は田中旭栄堂  もちろん栗饅頭をお土産にした


長崎市立山に平成17年11月にオープンした長崎歴史文化博物館の
復元した長崎奉行所立山役所の正面入口前の階段
写真で階段が古色を帯びている部分が、発掘調査で出土した遺構を
そのまま利用している。階段下の石畳と石垣の一部も同様である。

門、玄関、書院と御白州など一部を復元した長崎奉行所立山役所は、
文化五年の長崎諸官公衙絵図をもとにしたもので文化年間前後
(19世紀前半)の様子を表しているという。
同館で上映していた長崎奉行の一年を描いた立体映画には、俳優の
風間杜夫が第84代長崎奉行・遠山左衛門尉景晋(とおやま
さえもんのじょうかげくに)役で出演していた。遠山左衛門尉景晋は
江戸町奉行遠山金四郎の父親だそうだ。

なお長崎歴史文化博物館本館は黒川紀章氏の設計だとか。

2007.3.12(月) 大阪・難波から福岡へ帰る

前日の宿は、大阪なんばのスイスホテル南海大阪であった。
このホテルからネオンに輝く通天閣を眺め、いま大阪に居る事を実感した。

今日、3月12日(月)の街角風景は、難波のホテルから靱(うつぼ)公園の
森をわずかに見ながら大阪駅につき、山陽新幹線ひかりレールスターで新大阪を
出て、博多に帰るまでとする。


記憶の彼方の通天閣を、ホテルの窓から、いま見る


ホテルの室内と通天閣方面の夜景が二重写しとなった


右手に見える高層ビルは低層階に屋上回廊庭園をもつなんばパークスに建つ
パークスタワー。 右手下の道路は阪神高速1号環状線


スイスホテル南海大阪でビュッフェスタイルの朝食をとる


壁の装飾画が暖かく、華やいだ雰囲気をレストランに与えているようだ


眼下に見えるのは、南海電鉄なんば駅舎上の大駐車場であろう。右手はなんばパークスと
パークスタワー


ホテルの南側、阪神高速1号環状線の下の敷津東1交差点よりいまチェックアウト
したスイスホテル南海大阪を見る。これより四つ橋筋を北上する


四つ橋筋を大阪駅に北上途中、靱(うつぼ)公園前の交通標識をみて、
あわててカメラを取り出し、リアウインドウ越しに靱(うつぼ)公園の
森の一角を撮る。


四つ橋筋に僅かに覗いた靱(うつぼ)公園の森を通り過ぎて、京町堀1交差点の
交通標識を見る


四つ橋筋の京町堀1交差点の交通標識を見て、振返って靱(うつぼ)公園の
森の一角を望遠で撮る。


今は、靱(うつぼ)公園の中の地番、大阪市西区靱本町一丁目は私の本籍地である。
幼い頃の記憶は僅かにあるが、これは夢幻に近いものかもしれない。

大阪大空襲は昭和20年3月13日深夜から翌日未明にかけてあり、この時の
米軍の照準点の一つが靱本町に隣接する西区阿波座であったという。
この大阪大空襲のときの被災面積は21平方キロ、被災戸数136,107戸、被災者501,578人
死者約4,000人とも言われている。この大阪大空襲で丸焼けとなった靱本町は
戦後復興事業として靱(うつぼ)公園となり、今に至っているものと思われる。

大阪ではこの大空襲のあとも、6/1、6/7、6/15、6/26、7/10、7/24、8/14
と波状的に米軍の空襲があり、商都大阪は壊滅した。空襲による市民の死者は
10,000人とも15,000人ともいわれており、定かではない。

靱(うつぼ)公園の総面積は約10ha、東西約800m、南北約150mという。
その南北の80m位が公園の東端として四つ橋筋に面している。


新幹線新大阪駅プラットホームから駅前広場を望む


博多行きの、ひかりレールスターが入線した。2時間44分で博多駅に着く。


姫路駅手前で車窓から日本一の姫路城を見る。城内を見学した44年前のことが
思い出される。


福山駅の上りプラットホーム越しに福山城の隅櫓と石垣を見る

2007.3.11(日) 大阪 曽根崎にお初天神を訪ねる

伯母の七回忌法要に参列するため、大阪に出向いた。
法事の行われるお寺さんは、曽根崎のお初天神から
新御堂筋を挟んで目と鼻の先にある。

今日の街角風景は、JR大阪駅からお初天神に至る
道筋と「露天神社」通称「お初天神」を訪ねることとした。


JR大阪駅の1階コンコースの出発の鐘がある待ち合わせ場所である。
現在このあたりは改修中で、ご覧の通りせまくるしい。


JR大阪駅正面を見る


JR大阪駅正面玄関付近の大丸のディスプレー


大阪駅から阪神百貨店を見る


大阪駅を背に正面右手に大阪第一生命ビル、ヒルトン大阪などを見る
ここを左に歩いて行く


御堂筋にオブジェの如く屹立する日本一の排気塔  左方のノッポビルは
阪急グランドビル  右方のクラシックビルは大阪富国生命ビル


大阪駅前第4ビル前の御堂筋を僅かに南下し、左前方にお初天神の方を望む


大阪駅前第4ビル角の御堂筋を東方に横切って、お初天神通りに入る
お初天神通りのアーケードの右奥がお初天神の裏参道だ


お初天神裏参道の手前のお初天神通りに千鳥屋お初天神前店がある。
創業寛永七年(1630)のお菓子屋さんで銘菓千鳥饅頭が有名である。

  水鏡 せると伝ふる 天神の みあしのあとに 千鳥群れ飛ぶ

という菅原道真の故事から名前をとり千鳥饅頭と名付けたとのこと。


露天神社、通称お初天神の裏参道入口  左側に露天神社由緒略記板がみえる


昌泰四年(901年)菅原道真公、筑紫に左遷配流の途次、当地を過ぎ給う砌、
境内の草木深ければ、

  露と散る 涙に袖は 朽ちにけり

      都のことを 想い出づれば

と詠ぜられ、菅公大宰府にてご他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し、右の御歌より
「露の天神社」と称する。とのこと。


露の天神社拝殿

社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代、嘉祥三年(850年)
に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉住地曽祢神」を祀ると
伝えられる。
往時此の地は曽根、曽根洲と称する孤島にて、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの
御神名より起こる。

平安期、渡辺十郎源契来たりて入植せしより、渡辺氏一族を始め移植の民次第に増し、
曽根崎村へと発展し、当社も産土神「曽根崎天神」として、尊崇された。

現在も、梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。とのこと。


拝殿前の左手奥に立つ碑、曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地

お初天神社の案内板に云う

元禄十六年(1703年)四月七日堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町
醤油屋平野屋の手代「徳兵衛」、当社「天神の森」にて情死し、日を置かず時の
戯曲作家「近松門左衛門」により「曽根崎心中」として劇化された。

以後上演の度、男女身分の差無く多数の民衆観劇し、挙がって当社に参詣慰霊に
訪れたという。
「お初天神」と通称される所以である。とのこと。


正面のポットが二つ置かれている奥に、曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地
の碑が建っている。その右側にお初、徳兵衛のブロンズ像が見えている。

「曽根崎心中」は近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、元禄十六年(1703年)
大阪道頓堀の竹本座で初演

醤油屋の手代徳兵衛と遊女のお初が、義理に迫られ、恋を貫いて曽根崎天神の森
で心中するという世話物である。

次に掲げるのは、「曽根崎心中」の主人公お初と徳兵衛が、心中に向かうその道行
の冒頭部分である。

「曽根崎心中」道行の冒頭部分

   この夜の名残、夜も名残。 死(しに)に行く身をたとふれば、

   あだしが原の道の霜。 一足づつに消えて行く。 夢の夢こそあはれなれ。

   あれ数ふれば暁(あかつき)の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生

   (こんじょう)の、鐘(かね)の響(ひびき)の聞きをさめ。

   寂滅為楽(じゃくめつゐらく)と響くなり。

流れるような七五調の技巧的な美文に、叙景と叙情が一体となって盛り込まれ、
見る物・聞く者を陶然とさせる魅力を備えた名文となっている。とのことだ。


神泉露ノ井という井戸の上に御井神が祀られている。
案内板には次のように書かれている。

古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え、信仰の対象でありしこの
御井に坐す神。
社殿直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に
浪速七名井の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より湧出せしと
いう。名井「露ノ井」として当社社名由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、
社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。現在では地下鉄各線や
高層ビル群の建設等により地下水脈が分断され、水位が著しく低下している。


名井「露ノ井」はこの絵馬掛場所の後ろに現存する。位置は社殿直下である。


境内につらなる路地は行って見たくなるような飲み屋さんが軒を接している

2007.3.4(日) 太宰府スポーツ公園万葉の散歩道を行く

今日の街角風景は、太宰府市吉松の太宰府スポーツ公園を訪ね、
万葉歌碑が10基もあると言う万葉の散歩道を少し歩いてみた。
太宰府スポーツ公園は大宰府都府楼址から西方約2kmに位置する。


姫こぶしの花が咲こうとしている


太宰府スポーツ公園に行く途中に春日西友前の和食レストランで
昼食をとった。


太宰府スポーツ公園の脇入口到着


太宰府スポーツ公園万葉の散歩道から大伴旅人の万葉歌碑を見る




万葉集 巻第六・961
 帥大伴卿の、次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿(やど)りて、
 鶴(たづ)が音(ね)を聞きて作る歌一首
との詞書きがある。




万葉集 巻第五・839にある田氏真上(でんじのまかみ)の歌である。
天平二年(730)正月十三日大宰の帥 大伴旅人は自邸において盛大な
梅花の宴を催した。万葉集 巻第五に梅花の歌三十二首として収録され
ている歌の一首である。


春の野に 霧立ちわたり 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る
という、その歌碑の前からグランドをとおして東方に大野山(四王寺山)
を見る。その大野山の麓が都府楼址であり、大伴旅人邸が都府楼近くの
現在の坂本八幡宮あたりだとすれば、ここから東方に2km強の処となる。


椿 卜伴


まだ小さい沈丁花

2007.2.27(火) 土筆は今が盛りなり (福岡県 伊都の国原)

今日の街角風景は2週間ほど前に、今年の土筆は暖冬だから
もう出ているだろうと訪ねたが、まだ早すぎて空振りに終わった
同じ所の福岡県前原市の中央部、伊都の国原を再訪する。

また、ここからは万葉集に詠われた可也山(365m)をみることが
できる。遣新羅使人が天平八年(736)七月末頃に見たであろう山だ。


田圃の土留めの傾斜面に土筆が盛りである

袴を剥いで「おひたし」そのものでもいいし、「卵とじ」などもいい。
とにかく、酒の肴として一級品であると僕は思っている。


西南の方角に背振山系を望む。その向こうは肥前の国、佐賀県だ。
中央の小さく見えるピークが井原山(いわらやま 983m)、その右の
ピークが雷山(らいざん 955m)、その右方に谷をはさんで羽金山
(はがねやま 900m)である。羽金山頂上には標準電波送信所があり
その電波塔の高さは200mという。


万葉集に詠われた可也山(かやさん 365m 別名筑紫富士あるいは
小富士)を西北方向に見る。糸島郡志摩町に位置している。この山の向こうは
玄海灘だ。
可也(かや)という名前は、古代朝鮮の伽耶(かや)からとった名前である
ともいう。

遣新羅使人が天平八年(736)七月末頃に見たであろう山だ。

万葉集から転記してみよう

  引津(ひきつ)の亭(とまり)に船泊(ふねは)てて作る歌七首(のうちの第一首目)

     草枕 旅を苦しみ 戀ひ居(を)れば

        可也(かや)の山邊に さ男鹿鳴くも (巻第十五ー3674)

  (一首おいて・・・)

  右の二首は、大判官のなり

註 大意:旅の苦しさに、故郷を恋しく思っていると、可也の山辺に
     男鹿が鳴く。(それを聞くと恋しさがまさる。)  

大判官⇒この時の大判官は壬生使主宇太麿(みぶのおみうだまろ)      

2007.2.22(木) 福岡市博多区弓田町交差点近くに、お菓子を買いに行く

今日の街角風景は、博多駅から筑紫通りを4kmほど南下した
弓田町交差点付近にあるお菓子屋で安売りがあるというので訪ねてみた。
今は、福岡市に弓田町という町名は存在せず、バス停や交差点の名に
残るのみである。現在は福岡市博多区那珂という地名である。


この道をまっすぐ東行して1.5kmほど行くと福岡空港滑走路南端に
到達する。


安売りの案内紙がいい。2月28日はビスケットの日だそうだ。へぇー


僕はこの店の「コーコスベルゲ」というちっちゃな半球形のココナツクッキー
が好きだ。


店から西の方に弓田町交差点を望む。その向こうはJR鹿児島本線をまたぐ
跨橋道路である。


天神のデパートで昼食折詰弁当を仕入れて帰路についた。

2007.2.20(火) 衣掛天満宮に遊ぶ

今日の街角風景は福岡市から太宰府の水城大堤東門址を通り
衣掛天満宮とその近くにある万葉歌碑を訪ね、さらにそこより
すこしいった丘上の筑前国分尼寺跡に立ち、古を想う。


梅に鶯といきたいところだが、メジロである


太宰府の水城大堤東門址である。正面向こう側に水城大堤が続く。
昔の官道である道路を左方向に、即ち南東方向に約150メートルで
衣掛天満宮だ。


官道より衣掛天満宮を見る。現住所は太宰府市国分2丁目。正面鳥居の
左下に小さな石柱がみえる。「旧小字 衣掛」と読める。

神社に伝わる話では、都から左遷されてきた菅公(菅原道真)は長旅の
終わりの、ここ水城につき、旅衣を脱いで、傍らの松と石に掛け、新しい
衣に着替えた。その旅衣を掛けた松と石を祀ったのが衣掛天神(衣掛天満宮)
とされているという。


衣掛天満宮の後ろの森は水城大堤東門址から続く大野山(四王寺山、大城山とも)
の山襞である。この後ろの森のさらに後方の台地状のところに水城の監視所や、
屯所さらには宴会場すらあったのではなかろうか。水城大堤から都府楼址は望見
出来ないが、この地点からなら望見できるだろう。


衣掛天満宮に近い官道傍にある万葉歌碑
大伴旅人と娘子兒島の水城における惜別の歌


万葉歌碑の右側に娘子兒島の、左側に大伴旅人の歌が刻まれている。

  冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時に、娘子(をとめ)の作る歌二首
                          (のうちに一首)

    凡(おほ)ならば かもかも爲(せ)むを 恐(かしこ)みと

         振り痛(いた)き袖を 忍(しの)びてあるかも

                       (巻第六ー965)

  大意:普通のお方ならば、ああもこうもしましょうに、恐れ多くて、
      いつもならはげしく振る袖を、こらえて振らずにおります。

  冬十二月⇒天平二年(730年)

  万葉集のこの歌のあとがきは次のごとし

  右は、大宰帥大伴卿、大納言に兼任して、京に向ひて上道(みちたち)す。
  此の日馬を水城に駐(とど)めて、府家(ふけ)を顧み望む。時に卿を送る
  府吏の中に、遊行女婦(うかれめ)あり。其の字(あざな)を兒島(こしま)
  と曰ふ。ここに娘子(をとめ)、此の別るることの易きことを傷(いた)み、
  彼(そ)の會ふことの難きことを嘆き、涕(なみだ)を拭(のご)ひて、
  みづから袖を振る歌を吟(うた)ふ。

万葉歌碑の碑面左側には大伴旅人の返歌が刻まれている。

  大納言大伴卿の和(こた)ふる歌二首(のうちの一首)

    大夫(ますらお)と 思へるわれや 水莖(みずくき)の

        水城(みずき)の上に 涙拭はむ

                      (巻第六ー968)

  大意:涙なぞこぼさぬ立派な男子と思っている自分も、水城の上に
     立って、涙をぬぐうことであろうか。

  大伴旅人はこのとき、66歳であったという。翌年天平三年(731)
  7月25日、京(寧楽・・なら)で没したと。  


太宰府市坂本3丁目の公園にある万葉歌碑  山上憶良の歌が刻まれている
碑の裏面には「昭和六十三年二月吉日 武藤真 荒瀬朴武」とのみ刻まれて
おり、私人が建立したと思われる。


万葉集巻第五ー803の歌のあとがきに

  神龜五年七月二十一日、嘉摩(かまの)郡にして撰定しき。筑前國守山上憶良

として       反歌

     銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに

        勝(まさ)れる寶 子に及(し)かめやも  (巻第五ー803)
とある。

     大意:金銀も玉も何で子というすぐれた宝に及ぼうか。
 
  神龜五年⇒728年


小高い丘陵の森の左端に衣掛天満宮がある。写真に写っていない
左手から水城大提が、この小高い丘陵地につながり、そして四王寺山
へと連なる。すなわち、大宰府の水城防衛線の一環を構成している。

右手斜め奥250メートルあたりに筑前国分尼寺跡がある。


筑前国分尼寺跡から森の左端に衣掛天満宮がある小高い丘陵を望む


筑前国分尼寺跡にたつ案内板


国分共同利用施設に移転し展示している筑前国分尼寺跡の礎石

この礎石は、もともとはこの場所と道を挟んで対面の水田の土留めとして
利用されていたものを、ここに移転したという。


筑前国分尼寺跡の礎石礎石の案内板


筑前国分尼寺跡から水城大提につながる小高い丘陵の森を見る。左端に小さく
見える森に衣掛天満宮がある。

国分尼寺は、国分寺と共に全国の各国に置かれた法華滅罪之寺で、筑前国分尼寺跡も
筑前国分寺跡の西方約250メートル地点であるこの畑の中に位置していることに
なろう。筑前国分尼寺は8世紀後半ごろから9世紀後半ごろまで存在したと推定され
ている。


帰りに寄ったスーパーの屋上から背振山系油山に落ちる夕日をみる

2007.2.14(水) 福岡同期会(二水会) 福岡・大名で

今月の福岡同期会(二水会)は中央区大名二丁目の居酒屋「十徳や」
で開かれた。

我々がアウトプットを出せるのは、精々あと五年であろうという

話に、ただうなずくばかり。異論が出ないというのも珍しい。

これは正論であるか否かということではなくて、人生行路の

この地点に立って抱く希望であるに違いない。


西鉄福岡天神駅のプラットホームから大丸と西日本新聞会館を見る


新天町(しんてんちょう)商店街を通りぬける


今日の会場は大名二丁目で、中央区役所の対面に近い「十徳や」だ。
「十徳や」等が入っているビルは、大名第二公団住宅と呼ばれる。
福岡市は政令都市の指定を受けて、各区に区役所を新設したが、中央区役所
だけが住宅をその上層階に併設しなかったと思われる。その代わり、
中央区役所の至近距離に公団住宅を配置したのだろう。

福岡市(7区)は1972年4月1日に政令指定都市に指定さる
北九州市(7区)は9年早く、1963年4月1日に政令指定都市に指定


今月も全員参加だ


「十徳や」は二階にある。その帳場のよこで。


今泉の「夏」

2007.2.12(月・振替休日) 伊都国の土筆は未だ。 雷山・雷神社を訪ねる

この暖冬だ。雨も上がった今日ぐらいは土筆も出ているのでは
ないかと福岡県前原市の伊都国歴史博物館近辺を目指した。
しかし土筆は、ほとんど見ることが出来なかった。季節というのは
忠実で、2月22,3日ごろの春の名残の、あるいは大雪のあとに
土筆は出てくるのであろうか。


僅かに姿をみせた土筆

福岡県前原市の伊都国歴史博物館近辺は魏志倭人伝に出てくる
伊都國の中心に近い所であろうか。ここから周辺の山々を俯瞰し
雷山(らいざん955m)の中腹にある雷(いかづち)神社を訪ねる。


左側に怡土(いと)城跡のある高祖山(416m)、その右の低い所が
日向(ひなた)峠で、右に王丸山(453m)が続く。日向峠から朝日が昇る。


中央、南の方に雷山(955m)を望む。雷神社は手前の低い山を右手から左に
入った雷山の中腹にある。


雷山の雷(いかづち)神社

雷山は真言密教の道場であり、中腹にはインドの僧、清賀上人が開山したと
される、千如寺大悲王院があり、その中の坊であった旧観音寺跡に、雷(いかづち)
神社が祀られているとのこと。


雷山の雷神社 福岡県昭和35年指定天然記念物の大杉2本が見える。
幹周6~7m、樹高31~32m、樹齢1000年という。

万葉集巻三ー235 日本古典文学大系4(岩波)によれば

 雜歌(ざふか)

  天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、
         柿本朝臣人麿の作る歌一首

  大君は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の

       雷の上に 廬(いほ)らせるかも

  大意:大君は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上に
      いほりしておいでになることである。

  註一:天皇?人麿の作歌だから天武・持統・文武の三帝のうちであろう。
         持統天皇か。

  註二:雷岳(いかづちのをか)?奈良県高市郡明日香村雷にある丘。異説がある。

日本古典文学大系4(岩波)が異説があるといっている雷岳が、
今日訪ねた雷神社のある九州・筑紫の雷山(らいざん955m)である。


福岡県指定天然記念物  雷神社の大杉  樹齢1,000年という


福岡市西区金武の金武遺跡発掘現場 一面赤い土で、鉄分の多い土壌であろう
福岡から前原に向かう日向峠の入口の緩斜面にかなり大きな集落であろうか
向こうにみえるは飯盛山(382m)

2007.2.11(日) 井尻の里(福岡市南区井尻)

幕末の歌人 大隈言道の博多を詠める歌  

  霧はれて 井尻の里の 見えくれば 隠るる比恵の 神山の松

大隈言道は寛政10年(1798)福岡薬院に生れる
文久3年(1861)「草径集」三巻上梓
慶応4年(1868)7月29日「ささのや」にて死す

大隈言道の住居「ささのや」は天神と薬院の間、現在の今泉一丁目の
今泉公園のところにあったという。
「ささのや」から南の方5kmぐらいに井尻(いじり)は位置する。
また、比恵の神山は現在の博多区の山王公園付近と思われる。
「ささのや」から東南の方4km弱に比恵の神山があったことになろう。

この土地、福岡、博多では霧は通常西から東へと移動して行く。即ち
背振山系から福岡、博多を通って三郡山系へと天気は流れていく。
この歌はその情景を的確にとらえている。ただし大隈言道が詠んだ風景を
今見ることはできない。言道の住居の周りは畑で、遠く山々も見えたという。

筑前国続風土記(貝原益軒編纂)巻之六 那珂郡下 山王権現社の項に
「○ 山王権現社
 比叡村にあり。比叡山の山王を勧請せし故に、村の名も比叡と名づく。
 社は村の南に松林の高き岡に有。」
現在、博多区山王一丁目の山王公園内に、畿内の比叡山の日吉大社より
勧請されたと伝わる日吉神社が鎮座している。現在山王一丁目の北側に
隣接する町名に比恵(ひえ)町がある。比叡(ひえい)が比恵(ひえ)に
転訛したのだろう。いま山王公園はグランドや市民センター、体育館等が
建ちフラットになっている。僅かに日吉神社の小高い森をのこして。


井尻六ッ角歩道橋より南方の春日市方向を望む。
正面大通りが陸上自衛隊第四師団、航空自衛隊春日基地等へ通じる
県道31号線(福岡・筑紫野線)
右側道路が福岡女学院等に通じる県道505号線(板付・牛頸・筑紫野線)
左側道路が精華女子短大、西鉄雑餉隈駅等に通じる道路


井尻六ッ角歩道橋より東方の西鉄井尻(いじり)駅方向を望む(県道505号線)


井尻六ッ角歩道橋より北方向のJR新幹線博多南線高架線路、香蘭女子短大、
折立交差点方面を望む


ザ・モール春日(西友春日店)で夕食材料の買出し。ワインは「おたる」赤


今日はセゾンカード5%引きのためクレジットカードで支払った
ただしワインは5%引きの対象外だった


井尻六ッ角から500mほど南に行った福岡市と春日市の境界上に
福岡都市高速5号線部分開通、その下に国道202号線も部分供与


井尻六ッ角から500mほど南に行った所の部分開通した国道202号線
から西の方に背振山(1055m)を望む

2011/09/25

2007.2.3(土) 豊前の国 香春・鏡山に遊ぶ

万葉集に七首が載せられているという、福岡県田川郡香春町を訪ねた。
香春は大宰府と豊前国府を結ぶ官道「田河道」の駅家(うまや)であった。
豊前国府は昭和の終わり頃の発掘調査により福岡県京都郡みやこ町国作に
あったことが確認されているという。
前日の残雪も見たさに、福岡から県道60号線(飯塚大野城線)でショウケ峠を
超えようとしたが、チェーン規制でやむなく断念し、国道201号線に迂回して
八木山峠を越えて飯塚、田川を通って、香春の鏡山神社についた。


前日、福岡市博多区の麦野交差点から三郡山系を望む ここから三郡山系の
尾根まで約10km、その先約30kmに目指す香春があるはずだ。
太宰府は三郡山系右手の山麓にある。


田川市に入ろうとする「関の山」から香春三岳を望む。左から香春三ノ岳、二ノ岳、
一ノ岳である。一ノ岳は石灰石の採掘で頂上が削られ、平らである。香春の町は
香春一ノ岳の向こう側にある。


香春町の鏡山神社の正面石段上り口の左手にある万葉歌碑

 按作(くらつくり)の村主益人(すぐりのますひと)の、
    豊前の国より京に上る時の歌一首。

   梓弓(あずさゆみ) 引き豊国(とよくに)の 鏡山

      見ず久ならば 恋(こほ)しけむかも    (巻三ー311)

 筑紫豊 訳  梓弓を引き響(とよ)める、その豊国の鏡山は、
            見ないで久しくなったなら、恋しいだろうなあ。


正面の低い丘が宮内庁管轄の勾金(まがりかね)陵墓参考地であるところの、
河内(かふち)の王(おほきみ)の墓である。
その右手通路沿いに河内王を偲ぶ手持(たもち)の女王(おほきみ)の万葉歌碑が
小さくみえる。    奥の山は香春二ノ岳で、その左に一ノ岳が続く。   


河内の王の墓の傍で、西日を透かして行く雲を映す万葉歌碑

 河内(かふち)の王(おほきみ)を、豊前の国の鏡の山に葬りし時に、
   手持(たもち)の女王(おほきみ)の作れる歌三首。(のうちの三首目)

   岩戸(いはと)破(わ)る 手力(たぢから)もがも 手弱(たよわ)き

     女(おみな)にしあれば 術(すべ)の知らなくに   (巻三ー419)

 筑紫豊 訳  御墓の石戸を打ち破る力も欲しいなあ。わたしは弱々しい
          女子のことだから、せむすべを知らないことです。      
 

河内(かふち)の王(おほきみ)の墓
河内王の墓はこことは別個に民間伝承地があるという。それは鏡山神社から北東方
500m位のところの箒原(ほうきばる)、ははき原、または王原(おほきみばる)という
ところにあるらしい。

河内の王は持統天皇三年(689年)八月に筑紫大宰帥に任ぜられ、持統天皇八年
(694年)春に任地大宰府で没したと(日本書紀)


箒原(ははき原)と思われる近辺から南西の方角に鏡山神社の小高い森を見る。
そもそもこの森が万葉に詠まれた鏡山であるのだろうか。
勿論現在は鏡山といえばこの鏡山神社のある、この小さな山を指す。
しかし人家のある集落で鏡山というのは、箒原(ははき原)の東となりである。
台状となって見えるのが香春一ノ岳


車の後ろに万葉歌碑の背面が黒く写っている。


箒原(ははき原)近辺に建てられた河内王を偲ぶ手持(たもち)の
女王(おほきみ)の万葉歌碑
 
 河内(かふち)の王(おほきみ)を、豊前の国の鏡の山に葬りし時に、
   手持(たもち)の女王(おほきみ)の作れる歌三首。(のうちの一首目)

   大王(おおきみ)の 親魄(むつたま)合へや 豊国(とよくに)の

         鏡の山を 宮と定むる     (巻三ー417)

 筑紫 豊 訳  河内の王の御心にかなってか、豊国の鏡の山を御墓と
           お定めになることです。


鏡山神社のある鏡山が西日を受けて耀く


大王(おおきみ)の 親魄(むつたま)合へや 豊国(とよくに)の
鏡の山を 宮と定むる(巻三ー417)の歌碑から鏡山の隣りにある河内の王
の墓方向を望む。万葉歌碑はこの王墓の方を向いて建っている。

2007.2.2(金) 福岡に雪が降る

期待した早暁の積雪はなかったが、午前9時半ごろから雪となり
昼過ぎまで断続した雪となった。福岡管区気象台の観測では積雪1cm
を記録したと。最高気温は4℃とのこと。今はただ背振山系に雪を見るのみ。


山茶花と柚子にも冠雪


山茶花(サザンカ)


まだ僅かに残る柚子(ゆず)の実


蝋梅(ロウバイ)


雪をかぶっても蝋梅(ロウバイ)のいい香りがあたりをつつむ



もう雪も消えようとしている

2007.1.27(土) いま、蝋梅(ロウバイ)が盛りなり

福岡市では今、蝋梅(ロウバイ)の花が満開です。この花からは
馥郁(ふくいく)たる香りがただよいます。そのよい香りをどのように
表現すればいいのか。水仙と梅の花の香りがミックスした妖艶な香気を
感ずるとでもいいましょうか。とにかく比べようもないいい香りです。
その一枝を室に活けて、その香気のなかで、このブログを書いています。

 しらしらと 障子をとほす 冬の日や

   室(へや)に人なく 臘梅の花   

     窪田空穂(1877~1967)歌集「青朽葉」より


蝋梅(ロウバイ)は臘梅とも書き、冬の季語

    臘梅や 枝まばらなる 時雨ぞら  (龍之介)



植物の花についての貝原益軒の著述「花譜」巻之下の十二月に載せられた蝋梅花
「花譜」の発行は元禄七年(1694)中元日で貝原損軒書とある。
中元日とは7月15日のことであろう。損軒とは勿論、益軒自身のこと。
ここに載せてもらったものは明治43年発行の活字本「益軒全集」からのもの。

迎春花(わうばい)と記載ある花は、黄梅(おうばい)のことで、小ぶりの
黄色い小さい花が咲くモクセイ科の落葉中木で、連翹(レンギョウ)によく似ていると。


万有百科大事典(小学館)のロウバイ(蝋梅)の一節は次の如し

ロウバイ科の落葉低木。中国原産。日本には後水尾天皇(在位1611~29)の時代に、
朝鮮を通じて渡来。早春の鑑賞樹木として広く栽培され、また、生け花にもよく使われる。
葉は対生し、卵形または卵状楕円形で長さ7~15cm、表面はざらつき、全縁である。
1~2月ごろ、葉の出る前に横向きに花を開き、よい香りがある。花径は2cmぐらいで、
がく片と花弁は多数あるが、はっきり区別できない。外層は黄色、内層の弁は小さく、
暗紫色をなす。・・・・・
変種に花がやや大きく、花弁の色が全部黄色のソシンロウバイがある。

2007.1.22(月)21:00~23:30 中学校時代の同級生と会う

福岡在住の中学校時代の同級生Y君から電話があり、横浜在住の
同級生K君が福岡に来ている、会おうと。嬉しかった。
今日は福岡同期会の日であるが、20:30に終わったので、両君が
会っている平和楼本店に急いだ。


天神にある平和楼本店3F和食処の帳場にて


平和楼本店3F玄関の十日恵比寿の飾りの前で。ことしは春から縁起がいい。
会って開口一番K君から「元気そうだね!」の言葉をもらった。嬉しかった。


西鉄のれん街の対面にあるスナック「さかえ」にて


今泉にあるスナック「夏」にて


11:30となり楽しかった余韻を残して「夏」をあとにした。

2007.1.22(月)18:00~20:30 福岡同期会(福岡天神で)

今年初めての福岡同期会は、居酒屋・益正天神三和ビル店で
開いた。今回は一年後輩で埼玉県にお住まいのIさんにも参加
してもらって7名であった。Iさんは新入社員のころ福岡に勤務
されており、この会のメンバーのほとんどと顔見知りであるとのこと。
墓はどこにおいたらいいのか?散骨がいいのか?墓守はだれが
してくれるのか?などなど墓標をめぐる話もでた。さあどうしよう。


西鉄天神駅プラットホーム


西鉄天神駅プラットホームから天神交差点方向を見る


西鉄天神駅改札口を出る


天神交差点から東方向に明治通りを見る。会場は右手奥の方のビルにある。


益正天神三和ビル店が入る三和ビル。この地下1階に益正がある。


三和ビル入口付近。この地下1階に益正がある。


今月の福岡同期会会合記念写真


帰りに益正玄関で・・・。

2007.1.15(月) 菅原道真 謫居(たっきょ)の地 榎社を訪ねる

指の怪我の軟膏付け替えをして、その足で太宰府の水城東門址から
昔の官道を通り、都府楼址正面から真南にまっすぐ伸びていたろう
朱雀大路(都大路)の約400メートル地点にある菅原道真の謫居(たっきょ)の地
といわれている榎社(えのきしゃ)を訪ねた。

謫居(たっきょ)とは広辞苑によれば
罰をうけて、ひきこもっていること。また、辺鄙(へんぴ)の地に
配流されていること。また、そのすまい。
とある。

菅原道真は配流の身となり901年(昌泰四年)2月1日、京の家を
離れて筑紫のここ大宰府の南館(今の榎社)に向かっている。この年の
四月か五月の自詠に

 離家三四月   家を離れて三四月(みつよつき)
 
 落涙百千行   落つる涙は百千行(ももちつら)

 万事皆如夢   万事 皆 夢の如し

 時々仰彼蒼   時々 彼の蒼(そう)を仰ぐ

とある。そして903年(延喜三年)2月25日、59歳の生涯を閉じたと。


福岡から太宰府の水城大提東門址を通る。右手に大提が続く


水城大提東門址入り口にある水城大提の碑を左に見ながら旧官道を
太宰府の都府楼址方向へ行く


太宰府の都府楼址方向へ続く旧官道だ


菅原道真の謫居(たっきょ)の地といわれている榎社(えのきしゃ)である。
現在は太宰府天満宮に属しているとか。現在の新社殿は平成13年8月に竣工。
現在の社殿に建替える前に老朽化した社殿を除いて発掘調査を行ったところ、
その下から掘立柱建物を検出。その建物の方向は現在の社殿と一致する方向と
規模を持っていたとのこと。平安時代後半から明治時代までの間に建設されたと
推定されている。
ただし、その下までは発掘を行わず、埋め戻して新社殿を建立したという。


菅公館址の碑がある榎社右正面から見る


社殿から正面方向である南の方を見る
この参道の下から轍(わだち)の跡が数条見つかったと。九州では
珍しい発掘成果だと。


社殿の後ろに淨明尼を祀る祠がある。
西日本人物誌(12)西日本新聞社刊によれば
道真は罪人同様の生活を強いられ、謫居(たっきょ)の大宰府南館は
老朽化して雨漏りもひどく、床は朽ち縁も落ちている廃屋状態。食事
にも事欠くという悲惨な暮らしぶりを見かねた近くの老婆(淨明尼)が、
梅の枝に粟餅を巻き付けて道真に差し入れた。(梅ヶ枝餅伝説)
道真の死後、この老婆が道真臨終の地に淨明尼寺を建立(榎寺、明治の
廃仏棄釈後は榎社)し道真の菩提を弔ったという。

2007.1.11(木) 水城大堤・東門址に遊ぶ

指の怪我は回復がはかばかしくなく、1月6日(土)外科医院で
切開手術をした。今日1月11日(木)腫れも引き切開部は自然に
接合するであろうということで、10日間続いた薬の投与もうちきった。
やれやれである。医院受診後、水城の大提から都府楼址を巡ってきた。


水城東門址を通して水城の大提を見る。
水城は大宰府の安寧を保障する建造物であった。日本書紀は
・・・天智天皇三年、於筑紫築大提貯水名曰水城・・・と伝えている。
国土防衛の要として664年(天智3年)大宰府周りに延々と水城の要塞が
築かれた。


水城東門址はすぐ四王寺山(大野山あるいは大城山とも 標高410メートル)
の麓につながっている。旧内務省の管轄を示す標識が目に入る。


旧内務省の管轄を示す標識の表面は史蹟水城阯境界とある


福岡側から水城東門址に入る道路から西方に築かれた水城大提を見る


水城東門址の碑  奥に東門の礎石がみえる  向こう側が福岡
碑のすぐ左側が都府楼に至る旧官道


水城東門址の礎石


四王寺山の麓から水城大提を望む


都府楼址の真後ろの四王寺山麓に建つ大宰帥大伴旅人の歌碑

 やすみしし わが大君の 食国は(をすくには)
    
   倭(やまと)も 此処も 同じとぞ思ふ  (万葉集巻六・956)

岩波「日本古典文学大系 萬葉集」によれば

 大意: わが大君のお治めになる国は、大和も、この九州も同じだと思う
     (ので、大和はそんなに恋しくはありませぬ)。

 やすみしし: 用字法を見ると、「八隅知之」「安見知之」「安美知之」
        などがある。これによって、八方を統べ治める意があると
        見る説と、安らかに見そなわす意と見る説が分かれる。

 食国(をすくに): お治めになる国。ヲスはヰル(居)の尊敬語という。

 万葉仮名: 八隅知之 吾大王之 御食國者 日本毛此間毛 同登曾念

 神亀五年(728年)の作であろう


大伴旅人の歌碑がある辺りから都府楼址を見る


スーパーでパンを買う。チーズホンジュという160円のパンにはまっている。
出来立てがいい。

2006.12.23(土・祝) 志賀島は今(志賀島一周ドライブ)

漢倭奴国王の金印の出土で有名な志賀島は福岡市東区に属し、博多湾を
包むように突き出た海の中道という砂洲の先に浮かぶ周囲約10kmの
島である。この島の周回海岸道路は2005.3.20(日)10:53に発生した
マグニチュード7.0といわれる福岡西方沖地震で島の東半分が通行止め
となって一年を経過しても復旧しなかった。あれから1年9ヶ月たった今
志賀島はどうなっているだろうか。


海の中道から志賀島橋を通って志賀島に入る


勝馬から志賀島に至る島の東側海岸道路は2005.3.20(日)の福岡西方沖地震
による崖崩れで通行止めが続いていたが、一年以上をかけて復旧した


復旧した東側海岸道路のすぐ傍の玄界灘の岩礁に鵜があそぶ


海の中道ホテルの海浜から博多湾越しに建設中のアイランドシティを望む
アイランドシティの埠頭は一部稼動しているようだ


海の中道ホテルの海浜広場で


海の中道の玄界灘に面した北側砂丘で防砂植林事業が行われている。国営だろう。
砂丘を残すか否か難しいところだが、まず植林し白砂青松を作ることがいいだろう。
かって博多湾の海岸線をうめ尽くした白砂青松の風景が少しでもよみがえればいい。


海の中道を西戸崎に向かうJR香椎線のディーゼル列車か

今日は天皇誕生日の祝日であるが、素晴らしい好天に恵まれ、義弟の運転する車で
義母を志賀島一周ドライブに連れ出した。家内も喜んだ、すばらしい一日となった。

2006.12.13(水) 高校同級生会忘年会 神湊の魚屋本店にて

福岡や熊本に住んでいる高校同窓同級生17人が集いて忘年会を神湊の割烹旅館
魚屋本店にて行った。


魚屋は創業200年余で福岡県宗像市(旧宗像郡玄海町)神湊(こうのみなと)
にある。
街道に面した玄関の左手に伊能忠敬宿泊跡の碑がある。1813年(文化10年)
伊能忠敬第二次九州測量の際に一行が博多から小倉への測量時に、この魚屋に
宿泊したとのことだ。


魚屋本店ロビーに通じるアプローチ


一階ロビー  窓の向こうは荒波の玄界灘だ


二階の窓から鐘崎方面を望む
昭和15年、種田山頭火がこの宿に宿泊し、次の句を残したと
   
      晴るほどに 曇るほどに 波のたわむれ

なお種田山頭火は昭和15年10月11日未明、松山市の一草庵で58年の
生涯を閉じたといわれている

 
二階の宴会会場の一こま  窓の向こうに玄界灘が広がる


記念撮影1 うまく撮れているだろうか


記念撮影2 うまく撮れているだろうか


記念撮影3 うまく撮れているだろうか


集合記念写真  みんないい顔してるなあ


忘年会もお開きだ  これからJR東郷駅を経由して北九州、博多へと帰って行く

2006.12.12(火) 福岡同期会 西中洲にて

福岡在住の同期入社六人が月一回のペースで談笑する福岡同期会
定例の天神の居酒屋が薬院あたりに引っ越したので、今回は西中洲の
「藤よし」におじゃますることにした。


西鉄福岡天神駅で降りて博多大丸横のクリスマスイルミネーションの輝く
エルガーラ広場を通って西中洲の「藤よし」に急いだ。


西中洲の「藤よし」だ  懐かしい


二次会は「藤よし」のすぐ傍のスナック「すくーる」に決まった


「すくーる」を出る  これでお開きだ


美味しいドイツパンを持っている


中州のクラブだ


春吉橋の上からキャナルシティの方をみる
久方の西中洲、中洲は楽しかった   おやすみなさい

2006.12.9(土) 高校同級生と博多駅前で会う

長崎の高校同窓会福岡支部総会の開催準備当番回生になったことから、同級生の
幹事役三人が博多駅前での開催準備委員会に出ていた。その委員会の閉会を待って
同級生と会食し且つ談笑した。
高校時代の同級生と会って飲み食いしゃべり笑うことができたようだ。


小雨降る博多駅筑紫口で待ち合わせ


博多駅筑紫口地下1階の八仙閣博多駅店前で記念撮影



博多駅筑紫口地下1階の八仙閣で談笑  酒はもっぱら老酒だ


博多駅筑紫口前の博多都ホテル・コーヒーラウンジにて

2011/09/24

2006.12.2(土) 元同僚T君と天神で会う

元同僚のT君が福岡で開かれた高校の同窓会に参加した後、天神で会うことにした。
T君はまだ現役であるが、今年の春に東京から長崎に戻ってきた。
今日あいてますかと電話をもらった時は、ほんとに嬉しかった。


天神ビル地下1階の「朝次郎」で会い焼酎”伊佐美”で再会を祝し且つ談笑した


二次会は天神のBar”夏”である。
住所表記は今泉で、警固神社の国体道路をはさんで対面奥にある。


再会を楽しい酒ですごした  T君は21:30頃博多発の特急列車で長崎へ帰った

2006.11.23(木) タイ国八日目最終日 バンコク 国立博物館見学と王宮前広場

ツインタワーズホテルからトゥクトゥク(屋根付三輪タクシー)に乗って
国立博物館に向かった。日本出発前からぜひ行きたいと願っていたのだ。
新石器時代から近代に至るまでの収蔵品が陳列されている。
見学した後の感想は日本と似ているものの多さである。思えば日本とタイは
米作農耕民族であるし、仏教文化も共有しているのだから、似ているのも
至極当たり前なのかもしれない。


トゥクトゥク(屋根付三輪タクシー)に乗って国立博物館に向かった



物資輸送バイク隊か?


コンビニでは昼間は酒を売らない、買えないと  タバコはカウンターの下に隠してあると


リヤカー花屋さんとその向こうに屋台で美味しそうなものを作っている二人


王宮前広場に近づいた。 国立劇場が見える。その左手に国立博物館があるのだが。


木立を透して王宮前広場が拡がる


希望した国立博物館の中に立つ。 博物館本館は左方に展開する。
お土産品店でビーズの飾り物、皮製の花のブローチ、木製の象印メモ紙入れを
旅の記念として買った。リーズナブルを通り越して安かった。


国立博物館正門前  木立の中が王宮前広場ではるか前方に王宮があるのだが


王宮前広場(サナム・ルアン)の向こうに王宮とワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)


王宮前広場を囲む木立の周回路と点在する休憩ベンチ


国立博物館をあとに民主記念塔に向かうラチャダムヌン・クラン通りを行く


フアランポーン駅(バンコク中央駅)を過ぎてホテルに入る


ツインタワーズホテルをチェックアウトする。日本人女性スタッフに再訪を約し?
満面に笑みを湛える同行のK君

  
タイでは毎日、NHKのBS放送を聴視していた。だからテレビを見ている時は
日本にいる時と同じかと思えば、少し違うのだ。ゴルフやマラソンなどのスポーツ
ニュースでライセンスの問題があって動画が出ないのだ。視聴料を使ってライセンス
を取れば良いのに。日本の公共国際放送ですぞ。

この日夕方からホテルに戻り、湯を使ったりして、ゆったりと時間をすごした。
午後9時前にはチェックアウトし、スワンナプーム新国際空港に向かった。
翌日11月24日(金)午前1時発のタイ国際航空A300でタイの人々が「天使の都」
「クルンテープ」と呼ぶタイの首都「バンコク」をあとにした。
福岡国際空港到着は午前8時、気温15℃であった。

2006.11.22(水) タイ国七日目 バンコク近郊キアタニ・カントリークラブ

S君の案内で同行のK君ともども三人でゴルフを楽しんだ。
キアタニ・カントリークラブはバンコクの東方約35kmにあって、フラットで
ロングな美しいゴルフ場だ。スアンナプーム新国際空港(スアンナプームとは
黄金の大地の意味と聞く)(2006年9月28日開港)の近くでもある。
ただし、飛行機の音は聞こえない静かな環境だ。朝の空気が清々しい。


この風景を見ながらスタートグランドに近づく


左の方にスタートハウスが見える


キアタニ・カントリークラブ1番ティグランドで記念撮影


クラブハウス近くのコースをプレイヤーが行く


鉢植えのアデニウム(デザートローズ)がゴルフ場コース玄関を華麗に彩る


クラブハウスの「日本亭」でタイ料理の昼食で大いに談笑した
私はシンハビールのつまみにトード・マン・クン(エビのすり身揚げ)を注文した


ゴルフ場からバンコクへの帰路、高速道路を下りる途中にランドマークを視る
バンコク一の高層ビル「バイヨーク・スカイタワー」(バイヨーク・スカイホテル)
だそうだ。チットロム駅に近いプラトゥーナム市場付近にあって、高さ309mと聞く
そう言えば、ゴルフ場のすぐ近くにはトヨタ・アジア開発センターが平原のなかに
その威容を見せていた

2006.11.21(火) タイ国六日目 カンチャナブリからバンコクへ

朝のすがすがしい空気のなかのニチゴ・リゾート&CCを写真に収め、正午近くに
乗合タクシーでK君共々バンコクへ向かった。

約2時間でバンコクに到着し、今日の宿であるフアランポーン駅(バンコク中央駅)
近くのツインタワーズホテルに入った。

夕刻、タイで仕事をしている友人のS君と数十年ぶりに会う。
名門オリエンタルホテルの対岸にあるレストランで念願の宮廷料理を賞味し、華麗な
タイ舞踊のハイライトを鑑賞し、友との談笑に興じた。


朝日を浴びるニチゴ・レゾート&CCリバーコース6番付近


手前がアデニウム(デザートローズ)  アカマツリともいうらしい


朝もやに煙るリバーコース6番付近


リバーコース6番と9番に挟まれた「リバー」の奥に戦場に架ける橋のミニチュアが見える


朝のリバーコース5番付近


朝のリバーコース5番付近


リバーコース5番グリーン横から宿泊したコテージを見る


宿泊したコテージ この2階の一室にいた


コテージ付近からレイクコースを望む


バンコクのオリエンタルホテルのロビー   ここを通ってボートでレストランに行く


オリエンタルホテルからチャオプラヤー川を渡る船上から波に揺られてホテルを見る


チャオプラヤー川の夜風に吹かれる船上の二人


船上から波に揺られて対岸のレストランあたりが見えている


レストラン”サラ・リム・ナーム”よりチャオプラヤー川対岸のオリエンタルホテルを望む


憧れの宮廷料理だ  基本的には一般の料理と変わらないといわれるが、小生の舌では
明らかな違いがあった。ほとんどの一般料理が有する辛さに比べて、宮廷料理は辛さを
感じ取れなかった。それにしても華麗な料理とシンハビールに酔いしれた。


憧れの宮廷料理に大満足


三角枕に背もたれながら食事をし、タイ古典舞踊を観る。


きらびやかなタイ・シルクの衣装と、美しい手指の動きで演じられるタイ古典舞踊
それにしても踊り手の美形であることよ!


何を演じているのかが分かれば良いのだが・・・


タイ伝統楽器による音楽の演奏をバックに、ゆったりとして静かな動きだ
何よりも端正な美しい顔立ちとスマートな体つきに、しばし見惚れる

2006.11.20(月) タイ国ニチゴ・リゾート&CC 五日目

日の出は6:20頃だ。レストランでお粥、オムレツ、果物、コーヒーの朝食を
とり、7:00過ぎに18ホールをスタートする。気持のよい気候の中でプレーし、
概ね10:30頃に帰ってくる。


このクラブハウスのレストランで朝食をとる
手前の花はアデニウム(デザートローズ)その後方は盆栽仕立てのハイビスカス


クラブハウスを囲む池から大トカゲが這い上がろうとしている


クラブハウスのロビーの向こうがスタート地点だ


今日はレイクコースからスタートする
レイクコースの3番、4番ホール辺りをコテージ付近から望む


タイ桜の木をバックにレイクコース7番ティグランド近くで


今日もいつもと同じキャディさんがついてくれた。左側が私についてくれたキャディさん


ヘネシーの水割りと果物を肴に松本清張の「熱い絹」を読む


プサー(青りんごみたいなすっきりとした味わい)、サラー(とげのある皮の中の実が
甘酸っぱい)、チョンプー(ローズ・アップル)とロンガン(竜眼)だ
どれもこれも美味い。アメリカンのつまみに最適だ

2011/09/02

2006.11.19(日) ニチゴ・リゾート&CC 四日目 午後

映画「戦場に架ける橋」の舞台となったクウェー川鉄橋(クワイ川鉄橋)の
架かるクウェー・ヤイ川の辺の水上レストランで昼食をとるため、ゴルフ場
から約25kmの道を通ってカンチャナプリ市街地に入った。


                      カンチャナブリ市街地の幹線道路


カンチャナブリ市役所の隣りに建つパホール・ポルパユーハシーナ病院

クウェー・ヤイ川(クワイ・ヤイ川)を曳かれて行く水上家屋が見える


                    クウェー・ヤイ川の辺にある寺院


           カンチャナブリの繁華街、バスセンター近くか


             クウェー・ヤイ川の辺の水上レストラン入口


                水上レストランからクウェー川鉄橋を望む


水上レストランのテーブルの床縁におかれた盆栽仕立てのブーゲンビリア


川風に吹かれながらタイ料理とタイのビールでゆったりと昼の時間が流れてゆく


メインはこの川で採れた川魚のから揚げでソースは特別にレッドカレーを注文中


帰路、車の中から見た小学校。スクールバスで登下校するとのこと


       食品マーケット。ここで数種類の果物を仕入れた


             南国の果物。どれもこれも美味しいはずだ


緑色のものは柑橘類のライム(マオーナ)
その手前はメンダー(水棲昆虫のタガメ)のから揚げか、あるいは塩茹でか
フルーティな香りがあって食欲をそそるといわれているそうな・・・


この食品マーケットは奥行きもあって大きい。肉屋が見える


                          南国の花で埋まる花屋さん

2011/09/01

2006.11.19(日) ニチゴ・リゾート&CC 四日目 午前

ニチゴ・リゾート&CCには南国の樹木が美しい花を咲かせている。


早朝のリバーコース6番ティグランド付近


早朝のリバーコース1番ティグランドへ向かって小鳥が飛ぶ


レイクコース7番ティグランド付近にある樹木。キャディさんに聞くと、この木はさくらという。
日本人に人気があると言われる「タイ桜」とはこれか!
タイでは「チョンプー・バンティップ」というらしい。

(チョンプーとはタイ語でピンク色とのこと)花の盛りは3月頃とのことだ。

以下の2葉はこの木のアップと落花である。


タイ桜(チョンプー・バンティップ)


タイ桜(チョンプー・バンティップ)


リバーコース6番ティグランドそばに立つプルメリアの木  
木の下にプルメリアの白い花がいくらか散っている。 花の終わりの時期なのだ。
かってバンコクのナバタニー・ゴルフクラブでキャディさんが帽子に挿してくれた
甘い香りの白い花がこのプルメリアだったのか。


僅かに花の残るプルメリア(Plumeria)の木、英語ではTemple treeともいうそうだ。
キョウチクトウ科プルメリア属の総称とか。和名はインド素馨(そけい)
花には毒はなさそうだ。熱帯では四季咲きとのこと

 
木の下に散るプルメリア・アルバ(白いプルメリア)
すごく良い香りだ。これが南国の甘く妖艶な香りの花として、ブーケ、レイ、
髪飾りなどに使われるものなのか。 赤いプルメリア・ルブラは見なかった。


ゴルフ場からカンチャナブリ市街へ行く道すがら、山脈を見る。


ゴルフ場からカンチャナブリ市街へ行く道すがら、お菓子市場に立ち寄る


それはそれは沢山のお菓子類が売られている。市場はお菓子の製造直売もしている。
お菓子専売の大きなマーケットだ。


お菓子市場の裏手の駅舎近くの鉄道線路